<テーマ142>「特有感覚」と自己愛
(142―1)修正と再学習
(142―2)教えられることが脅威となる
(142―3)壊れやすい自己愛
(142―4)これまでの生き方の否定
(142―5)項の思わりとして
(142―1)修正と再学習
「ひきこもり」の人たちの「特有感覚」という概念を2回にわたって述べてきました。
この感覚自体はそれほど問題ではないのですが、これが彼らと周囲の人との差異を見せつけるので、時に彼らは傷つき、再び人間社会から引き下がりたくなってしまうこともあるのです。ここをどうサポートしていくかということが、「ひきこもり」の援助でとても重要であると私は認識しています。
周囲の人が当たり前に共有している事柄が、自分にはないという体験を彼らはしてしまうのです。しかしながら、これは何も不思議なことではありません。彼らはひきこもっていたが故に、それを単に知らないだけだと捉えて構わないからです。
私たちは人生の初めからコモン・センスを身に着けて生まれるわけではないのです。その後の経験によって、いつしかそれを身に着けていくものです。
それに、私たちはコモン・センスだけで生きているわけでもありませんし、すべての人がそれを完全に身に着けているわけでもありません。不十分にしか身に着けていなくても、それなりに適応的に生きることも可能なものです。
そして、ある程度までの「ズレ」は許容されたり、見過ごされたりすることもけっこうあるものです。
従って、彼らがもし自分の「特有感覚」のために苦しんでいるとすれば、これからそれを修正し、学んでいけばいいというだけのことになるのです。
私には確かなデータがあるわけではないのですが、人間社会の中で生きるようになれば、大体一年もあればかなり「コモン・センス」は身に着くものだと捉えています。このことは、例えば、大学生と入社一年を経た会社員とを比較してみればよく理解できることなのです。
「ひきこもり」の人が自分は周囲の人たちと決定的に何かが違う、何かが備わっていないという感じに苦しんでいるとしても、それは必要な苦しみであり、そういう体験を通して彼らは新たなことを身につけたり修正していくことが可能なのです。
(142―2)教えられることが脅威になる
ここまで読んでこられて、もしかすれば、「それが分かっているのならカウンセラーであるあんたが彼らに教えてやればいいじゃないか」と思われる方もあるかもしれません。それに、その指摘はもっともなものであります。
実は、私は一時期そういうことを試みたことがあります。私のやりかたが下手だったのか、彼らの側にある何かのためか、これは上手くいきませんでした。
彼らの多くは、私の経験した範囲では、人から教えてもらうということに耐えられないのです。そして、しばしば反発したり、聴く耳を持たないといった態度に出られるのです。「それはこんな風に考えることもできるんじゃない」と私が述べただけで、「それは暴力だ」と返してきた人もありました。彼らにとって、こうした働きかけは耐えられないことなのです。
彼らの強すぎる自己愛が、彼らをして人から教えてもらうという出来事を屈辱であるかのように体験させてしまうのだと思います。彼らは人から教えてもらうということに耐えられないようでありますし、それは非常に彼らの何かを損ねる出来事なのです。
従って、彼らがこの先傷つかないように、苦しまないようにと思って、前もって教えておこうという試みはどうしても失敗してしまうのです。それ以来、私はこの方法を断念しています。
さて、彼らは他の人たちが普通に共有している感覚が自分にはないようだと気づく瞬間がそのうち訪れます。その時に彼らが体験するのは驚愕であり、困惑であり、傷つきであります。みんなが普通に知っていることを自分は知らないという、実はそれだけのことなのですが、これは彼らのわずかしかない自尊感情を激しく揺さぶる体験となってしまうことも稀ではないように思います。
知らないだけなのだから、謙虚に学んでいけばいいだけのことなのですが、彼らの自己愛は人から学んだり教えてもらうことに対して、激しく抵抗してしまうのです。教えてもらうということは、一つの上下関係の体験となり、侵入してくるような体験となり、自分が「ダメ」と言われているとことだと即断したりするのです。
こうして、彼らは一つの段階からなかなか抜け出すことができなくなってしまうのです。ここを彼らにどう理解してもらうかということ、並びに、この事態に対して私がどのような働きかけができるかということが、「ひきこもり」の人を援助する際にとても大きなテーマとなっているのです。
(142―3)壊れやすい自己愛
自己愛の問題はとても大きいテーマでありますので、別に項を設けて取り上げるつもりでおります。ただ、人間は誰しも自己愛を有しており、自己愛そのものが問題なのではなく、その人がどんな自己愛を有しているかということが問題となるということをここでは強調しておくにとどめます。
自己愛の問題は「ひきこもり」の人に限ったことではありません。しかし、「ひきこもり」をしている人の話には、尊大な自己愛を示すエピソードが頻繁に出てくるというのも事実であります。
前項で20年近くひきこもってきた人の事例を挙げました。彼には2か月間のアルバイト経験がありました。しかしながら、20年の間に2か月というのは、ほとんど無いに等しいものであります。でも、彼はその2か月の体験があるから、自分は一流企業でも通用すると信じているのでした。これもまた自己愛なのです。
また、あるクライアントは私用で平然と遅刻することが多々ありました。相手が自分のことを待っているとは信じられないかのようでした。別のクライアントは「自分はいつも5分前にここに着いている。だから僕ほど真面目なクライアントはいない」と私に語りました。
女性のあるクライアントは仕事を始めて、ある時、先輩からひどく叱られたという体験をして、とても落ち込んでいました。彼女は仕事のことで先輩に尋ねたのです。先輩は「何べん教えないといけないの。いい加減、覚えてよ」と言われたそうです。それも、彼女はとても忙しい時間帯に先輩に尋ねたそうです。
別の女性クライアントはある場所に行くのに、どうしても道が分からず、ずいぶん遅刻してしまったという話をしました。今のように携帯でナビが見られるようになる以前のことです。私は「道を尋ねるような人がいなかったの」と聞いてみました。彼女は「人には道を聞けません」と答えました。続けて、彼女は「人に尋ねるのは恥ずかしい」と話されたのでしたが、この恥ずかしいという感情の背後に自己愛を私は感じるのです。
他にもたくさん例を挙げることができるのですが、これくらいにしておきます。上記の例はすべてその人の抱える自己愛の問題が露呈しているものと考えられるのです。
彼らの自己愛はとても強すぎる観を呈するのですが、実際は非常に脆い自己愛を有していることがほとんどです。この脆い自己愛は、他者の些細な言動でひどく傷ついてしまうのです。彼らはそれを「自分はとても傷つきやすい人間だ」というように表現されるのですが、傷つきやすいというよりも「壊れやすい」と表現する方が正しいのです。わずかの傷つきで彼らはいともたやすく壊れてしまうのです。そして、この脆さをカバーするために、あるいは守るために、自己愛を過剰に備給しなくてはならないのです。それがある種の尊大さとして表面に現れているのです。私はそのように考えています。
(142―4)これまでの生き方の否定
あまり自己愛のテーマに入り込むのは控えましょう。そのテーマのページを設ける予定をしておりますので、そちらを参照していただければと思います。ここで「特有感覚」の方に話を戻しましょう。
彼らは彼らの会得している能力で適応しようとし、身につけたわずかばかりの対人関係技術で対処しようとします。彼らにできる精一杯のところで、人間関係や社会に適応しようとしています。本当にギリギリのところで適応しているという人が多かったように思います。
そこで、彼らは「自分は他の人たちと何かが違う」とか「みんなが普通に分かっていることが自分には分からない」という体験をしてしまうわけです。だから、この体験が彼らにとっていかに辛いものとなるかということも、私は理解できるのです。
彼らははっきりと述べてはくれないのですが、この時、彼らはこれまでの「ひきこもり」の人生を後悔しているのではないかと私には感じられることもあるのです。
最初に述べたように、彼らは「ひきこもり」をしていたために、学ぶことができなかっただけなのです。だからこれからそれを学んでいけばいいだけなのです。
でも、もしそれをするとなると、彼らは「これまでの生き方が間違いだったと、すべて否定されてしまう」と述べられるのです。この思考も実は自己愛に裏付けられているものなのですが、それは置いておきましょう。
「ひきこもり」の人であれ、その他の人であれ、生き方を改めようという場合、どこかで「これまでの生き方が間違っていた」という認識を得なければならないものです。確かに辛い認識ではありますが、この認識が欠けている場合、本当にその人の生き方が変わっていくかどうかはひどく疑わしいと私は考えます。辛いけれど、必要な認識であると私は捉えています。
そこから先へ一歩踏み出すかどうかは、それぞれの「ひきこもり」体験者に課されていることなのです。
(142―5)項の終わりとして
私が「ひきこもり」の人と会っていて感じる彼らの「特有感覚」について、三項にわたって述べてきました。上手くまとめられたという感じが私はしていませんので、恐らく、読んでくれた方々にも伝わりにくい部分が多々あったのではないかと心配しております。
いくつか、これまで述べてきたことをおさらいしてこのテーマを締め括ることにします。
この「特有感覚」は、彼らが学び損ねたという部分が大きいと考えていますし、一部は彼らの自己愛がその感覚に一役買っているものでもあると考えています。
「特有感覚」そのものは別に悪いものでも間違ったものでもありません。ただ、彼らが人間社会の中で生きていくことを困難にしてしまうという点で問題になるものであります。
彼らの体験は「自分はみんなと違う」という言葉に要約できるでしょう。自分と他人の違いを知るということは、実はとても大切なことで、それが自己の確立につながるのです。その代り、一方では、その差異の認識は彼らに衝撃や傷つきを与えてしまうことにもなるのですが、そういう体験は防ぎようがないのです。
彼らがそういう体験をしないようにしようと思って、こちらが前もって教えてあげようとしても、彼らには伝わらないのです。
彼らが傷ついたとしても、私はその傷つきも必要なものであると捉えています。ただし、それも傷つきの程度によります。
そして、彼らが傷ついた時、私はその傷つきの体験を表現してほしいと願うのです。そして、この傷つき体験から学ぶことは学ぶように援助したいと思うのです。
私は「ひきこもり」の「治療」が一筋縄ではいかないし、根本的な「治療」には多大な時間がかかるということも理解しています。少なくとも、彼らが人間の中で生きる事、社会の中で生きることができ、生きていける場所を獲得していけばそれで取り敢えずは十分だと考えています。
「特有感覚」は、その目標の妨害として働いてしまうがために問題になるのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)