<テーマ141>「ひきこもり」の「特有感覚」(2)(続)
(前項からの続き)
(141―3)就職活動を開始した「ベテラン」の事例
高校入学直後から不登校に陥り、その後、二十年近く「ひきこもり」を続けてきたという男性が、ある時、私の所へ相談に訪れました。
彼の両親は健在でしたが、年老いて、彼を今まで通りに養うことができないと言うのです。毎日のように、彼は親から「どこでもいいから何かして働いてくれ」と泣きつかれるという状況でした。そこで、彼は働かなければならないということになったのです。
高校へはほとんど行ってません。彼の実質的な最終学歴は「中学卒業」ということになります。
その上、仕事を探すにしても、彼は何一つ資格を有していないのです。バイクや自動車の免許すら持っていないのでした。パソコンには詳しいようでしたが、それは例えば企業が求めるようなパソコン技能に精通しているというわけではないようでした。
その彼が思い立って就職活動を始めているのです。たいへんな決断だったことでしょう。それに、それは素晴らしいことであり、応援したい気持ちになるのです。でも、彼はもっぱら一流企業であるとか、大手企業に応募しているのです。
その時、職種に関しては一切考慮されていないのでした。メーカーであろうと、販売店であろうと、彼が応募する基準はそこが一流とみなされているかどうか、大手であるかどうかということだけなのでした。自分は一流企業か大手企業で働かなければいけなくて、自分は当然そうあるべき人間なのだと、彼は信じているようでした。
当然のことですが、そういう企業から彼は相手にされません。雇う側からしても、「中学卒」「高校中退」で、何の資格も有していない彼を雇うことは難しいだろうと思います。一体、彼がどういうことに向いている人間であるのかもまるで把握できないからです。
彼はいろんな企業に応募していました。企業の方では、彼のような経歴の人はいささか敬遠されてしまうものだと思います。
そして、これが現実なのです。この厳しい現実に、彼は痛々しいほど「自己愛的」傷つきを体験していました。彼は自分の空想の中で信じていたほど優れた人間でもなければ、当然だと信じていたほど周囲は自分を無条件には受け入れてくれはしないのだということを、ありありと体験していたのでした。
彼のこれまでの生き方が悪いとか間違っているとかいう話をしているのではありません。もし、彼が彼の思い描く通りの生き方をしようとするなら、彼は「大学卒で有資格者」であることが最低限の前提条件でした。彼はただそのようには生きてこなかったのです。
二十年近く「ひきこもり」歴があるのですが、その間に彼は何をしていたのでしょう。彼は一度だけアルバイトをしたことがあると話してくれました。それは二か月くらい続いたそうです。
彼にとって、二か月のアルバイトは確かにたいへんなことだったかもしれませんし、かなりの苦労もされただろうと察します。でも、彼が信じているほど、この二か月間のアルバイト経験は優れたものではないのです。彼が二か月で辞めた理由は問いません。彼のような「ひきこもり」をしている人が二か月間も働いたということは、確かに偉業ではあるかもしれませんが、一般的にはそのようには見做されないものなのです。
どんなアルバイトでも、最初の一か月くらいは見習い期間になると思います。見習い期間を終えて、ようやく仕事ができるようになって間もなく、彼は辞めているのです。もちろん、まだまだ新人で責任ある仕事を任されたりはしていなかったでしょう。
しかし、彼は、無邪気にも、この二か月間の体験があるから、自分は社会に通用すると信じていたようであります。
今回の就職活動は、彼が親に泣きつかれるようになってから始めています。親が「働いてくれ」と泣きつくので、彼は職探しを始めているのです。それまでは「働いてくれ」と言われることもなかったので、それでいいものだと彼は信じていました。
一度きりのアルバイトも、ある時、親から「アルバイトでもしてみたらどうだ」と言われて始めたのでした。
このカウンセリングも、彼は「難しいのならカウンセラーに相談してみては」と親から言われて始めたのでした。
言われたらやってみるけれど、言われなければしなくていいのだという信念が彼にはあるように私は感じました。つまり、彼は自分の人生に本当には関わっていないのです。
そして、狙う所は一流なり大手の企業です。業種はまったく問われていません。適性とか興味とかをまったく無視して、自分が働くとすれば一流なり大手なりに決まっているという感じでした。そして、そういう企業が自分に値する所だと信じているというような、ある種の尊大さが彼には見受けられるのでした。
しかし、彼の経歴はあまりにもみすぼらしいものでした。彼はそのことを決して理解しようとはしませんでした。二か月もアルバイトを継続したことがあるという、その事実だけにしがみついているのです。それは彼が信じているほどの効用がないにも関わらずにです。
彼がカウンセリングを受けに来た時、彼は「とにかく就職できるようにしてくれ」と私に頼むのです。「それはあなた次第ですよ」などと私が言おうものなら、彼は恐ろしく激怒するのです。そして、「あなたはまるで私を魔法使いか何かのように信じておられるようだ」と伝えてみますと、彼は「だって、あなたはそういう人なんでしょう」と平然と答えられたのでした。
彼はネットの世界ではそれなりに人気者だと話してくれました。現実には一人の友達もいないにも関わらずです。そして、自分のような人気者を採用しない企業はどうかしているし、自分のような人気者が助けてもらえないなんておかしいという口ぶりなのです。
この男性とは一回限りの面接で終わりました。彼の求めるようなものを私は与えることができない、それは私の能力をはるかに超えているからだと私は説明しました。彼は「カウンセラーって、人を幸せにするものでしょう」と言います。実際、私はどこにもクライアントの幸福を保証するというような文章は書いていないのですが、彼はそのように捉えていたのでした。
私は「あなたは何を選んでも構いません。自分の求めているものを与えてくれそうな人を探してもいいのです。少しでも自分自身を振り返るというのであれば、私も尽力するつもりではありますが、必ずしもあなたの満足のいくことばかりとも限らないものです」と伝え、今後どうするかを決めてもらうことにしました。彼は「考えます」と言って帰られましたが、「考えます」と言うすべての人がそうするように、彼もそれ以後まったく連絡することもなく過ぎていったのです。
この男性を分析することはここでは控えましょう。脆弱で希薄な自我を過剰な自己愛備給で補償していたのですが、自己愛的な傷つきのために脆弱な自我が露呈してしまいそうになっているのを一次的な防衛機制を発動させて自分を維持しているということが窺われるのです。
本項では「特有感覚」について述べています。これを読んだあなたが、彼の言動に少し「普通とは違うな」というような点を感じられたとすれば、それが彼の「特有」な部分なのです。
(141―4)大人社会への憧れと恐れ
上記の事例の男性は、少なくとも、大人社会を知ることなく生きてきたのだと言えるのではないかと思います。
私たちが子供だったころを思い出していただきたいのですが、大人や大人社会に対して、すごく反発感を覚えたり、恐ろしいと畏怖したり、不潔で汚らわしいと思われたりしたという経験をお持ちではないでしょうか。
私には子供時代にそういう経験をしたことを覚えています。その感覚を忘れたのか、克服したのか、何とも言えないのですが、いつのまにか大人社会に足を踏み入れ、当たり前のようにそこに適応してしまっているのです。恐らく、他の人たちも同じような経験を多少なりともされているのではないかと私は思うのです。
「ひきこもり」の、それも「ベテラン」の人たちとお会いして私が思うのは、彼らはその感覚をいまだに持ち続けているのではないかということです。
彼らの話では、大人は「悪」であり、大人社会は「悪」や「犯罪」が渦巻いている世界であるかのように語られることも多いのです。
さらには、人間には「裏表」があるものだということが、彼らにはどうしても受け入れがたいのではないかと思います。上記の男性も、「応募の宣伝ではうまいこと言っているのに、応募したらまったく採用しないとはなにごとか」と立腹されていました。募集の宣伝文句と現実の採用とはまた違ったものであることが彼には理解し得ないことのように思われました。
そうして、彼らの「人間観」とか「社会観」というのは、ある意味で、とても純粋で純情なままで止まっているのです。彼らのこの感覚が、彼らをして「大人社会」へ踏み出すことを思いとどまらせてしまうことに一役買っている場合もあるように私は感じます。
ある「ベテラン」のクライアントは大人を「汚い」と語りました。そのことは「汚い大人の仲間入りすると、自分も汚い人間になってしまう。自分が汚くなって堕落するくらいなら、大人の仲間入りはしたくない」という観念を生み出しているようでもありました。
ところで、なぜこの人にとって、大人は「汚い」存在でなければならないのかということが私には気になるのです。
大人の側を「汚い」と措定することで、彼自身は「きれい」な存在であるという感覚が維持できるのだろうと思います。
では、なぜ彼は「きれい」でなくてはいられないのでしょうかということが、同じように疑問になります。ここでは彼のある部分が否認され、排斥されているのを私は感じます。
つまり、彼は自分が「きれい」ではないから、自分に「きれい」ではないものがあるから、自分は「きれい」でなければならないということになっているのだと思います。
自分が「きれい」ではないということは、彼は自分の中に、自分でも見たくない「汚い」ものを多分に抱えているのだろうと思います。「汚い」ものがそこにあるのが彼自身に感じられているのではないかと思います。
でも、その「汚い」ものは何としても否定したいし、自分の中から排除したいのです。その人が大人を「汚い」と言って非難する時、彼は彼自身の中にある何かを非難しているのでもあるのです。私はそう捉えていました。その人が大人や大人社会に対して発言する時には、同時に彼自身の何かについて語っているわけであり、自分の見たくない部分を、大人の側に見出しているということになるわけなのです。
こうした「投影」によく注意しておくと、「ひきこもり」の人を理解するうえでとても役に立ったという経験が私には個人的にあります。
ある「ひきこもり」の男性クライアントは、中学生の頃にいじめに遭い、不登校に陥り、それ以後「ひきこもり」になってしまいました。その人は社会もまた中学校と同じように恐ろしい場所であると信じていました。彼は、中学生の頃の学校や教室、クラスメートたちといった世界を、そのまま大人の社会に投影しているのです。中学校の教室で起きたこととそのまま同じことが会社で生じるだろうと信じていたのです。
彼らが大人や社会を「汚い」とか「悪」として感じたり、恐れたりするのは、その社会の中で生きている人を彼らが知らないという観点もあります。彼らの身近にモデルとなるような大人がいないということなのです。この点はとても重要なことでありますので、項を改めてテーマとして取り上げたいと思います。
彼らが「大人社会」を汚らわしいと感じたり、恐れを感じたりしているとしても、その一方では、何か「大人社会」への憧れみたいなものを抱いているという印象をも私は受けるのです。
彼らにとって「大人社会」は、手の届かない世界でもあり、怖いのだけれども、一方で、その世界の仲間入りをしたいという感情もあるようで、それは彼らの空想内容を読み解くと感じられるのです。そして、仲間入りしたいという感情の方をいかに育てていくかということも、「ひきこもり」に関しては、大切な観点であると私は考えております。
彼らの「特有感覚」は、彼らと周囲の間に亀裂を生み出し、彼らは傷ついてしまうのです。そのことが、仲間入りをしたいという感情そのものへも影響を及ぼしてしまうので、私は問題意識を抱えているのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)