<テーマ140> 「ひきこもり」の特有感覚(1)
(140―1)映画『チャンス』より
(140―2)自分の感覚に苦しむ
(140-3)感覚は伝わる
(140―4)年齢との乖離
(140―5)再び『チャンス』に戻って
(140―1)映画『チャンス』より
ピーター・セラーズ主演の映画で「チャンス」という作品があります。
主人公のチャンスはある屋敷に住み込みで働いている庭師です。ある時、屋敷の主人が亡くなって、彼は屋敷に住むことが許されなくなりました。彼は屋敷を後にし、初めて外の世界に出ていくのです。
彼は車道の真ん中を歩いたり、ガードマンに庭の手入れのことを話したりします。不良グループにからまれて、彼はテレビのリモコンで応戦します。そして、この不良グループの捨て台詞を律儀に伝達しようとするのです。
チャンスのこうした行為は観客には「ズレ」たものとして映るのです。そして、彼がいかに世間を知らずに生きてきたかということをも暗示するのです。
「ひきこもり」の人と面接していると、しばしばこれに類した「ズレ」を経験することが私にはあります。
この「ズレ」を的確に表現する言葉を私は知らないので、取り敢えず、ここでは彼らの「特有感覚」と名付けておくことにします。本項ではこの「特有感覚」について述べることにします。
ちなみに、「特有感覚」の対義語は何かと言いますと、「コモン・センス」ということになると思います。「コモン・センス」というと「常識」という意味になるのですが、ここではむしろ私たちが無意識的に共有している感覚という意味であることを強調しておきたいと思います。
(140―2)自分の「感覚」に苦しむ
「ひきこもり」を体験されている人たちが、自分の「特有感覚」に苦しむことになるのは、彼らが外に出るようになってからです。チャンスがそうであったようにです。
彼らは次のような表現をします。
ある男性は「自分は他の人たちと何か違うものを感じてしまう」と述べられました。
同じく男性のクライアントでしたが、「何か自分だけ輪の外という感じがしてならない」というように述べられました。
女性のクライアントは「みんなと同じものが自分にはないようだ」と語り、他の人たちが普通に有しているものが自分には欠けているのではないかという不安を語るのです。
また、別の男性クライアントは、周囲の人から彼一人が何かズレていると指摘されて、初めて「自分の何がズレているのか分からない」と悩むようになりました。
決して彼らに常識が欠けているとか、そういう意味ではないのです。これはもっと感覚的な現象であります。彼らにとって、自分のその状態は自然なことであり、「常識」なのですが、周囲の人から見れば、彼らは何か独特の感覚、感性を持っているように映るのです。周囲の人との間に、感覚的なズレを彼らは体験することになるのです。
そして、こうした「ズレ」に直面させられてしまうということは、彼らにとってはひどく傷つく体験であり、脅威として体験されてしまうことも稀ではないのです。さらに、彼らをして疎外感に陥らせ、自分があたかも集団の中において異邦人であるかのように体験してしまうことも起きるのです。
後ほど述べたいと思うのですが、彼らがそういう体験をしている時、私にはそれは再学習の機会であるようにも思われるのです。でも、一方で、せっかく人の中に出て、社会の中で生きようとしている彼らがこれを契機に躓いてしまう危険性もあるのです。だから、このことは非常にデリケートな問題でもあるのです。
(140―3)感覚は伝わる
「ひきこもり」の人が私の面接室を訪れるという場合、多くはこれ以上ひきこもることができないという状況に置かれているのです。彼は就職しなければいけないという立場に追い込まれているのです。
でも、彼は自分がまだ働けるレベルではないと体験していたりもするのです。就労ということが、あたかも、自分の能力をはるかに超えているものとして体験されているということなのです。
時代が違えば、彼らの就職もそれほど困難ではないかもしれませんし、就職してからも彼らは抱えてもらえるかもしれません。残念なことに、就職難の時代の上に、彼ら自身に就労経験が乏しいということで、彼らの就職活動は一層困難を極めてしまうのです。
「ひきこもり」をしていたクライアントが就職活動をします。当然、彼らは履歴書を提示しなくてはなりません。この履歴書を送付する時点で不採用になってしまう人もおられるのです。どうしても経歴の上で空白の部分が生じてしまうからであり、それに対して採用する側を納得させるような理由がないためなのです。
仮に、履歴書を受理してもらえて、採用面接まで漕ぎ着けることができたとしても、その面接で不採用になってしまうという例も私はいくつも見てきました。私は個人的にこう思うのですが、面接官には何かが分かるのではないかと思うのです。何か感覚的なものが伝わるのではないかと思うのです。
でも、暗い見通しばかりではありません。もし彼らが就職を諦めなければ、何度も不採用を経験して、たとえアルバイトでも採用の通知を貰えるようになることもあるのです。なぜ、ずっと不採用続きだった人が採用を得られるようになるかということですが、大抵の場合、彼らは「面接に慣れたからだ」などと答えるのです。でも、私は彼らの「特有感覚」が修正されてきたからだというように捉えております。もう少し言えば、周囲の人に彼がより近くなっていったからだということです。
ある「ひきこもり」男性に、私は就職についていろいろ質問していました。彼は自分の就職に関して次のような物語を始めました。
彼がどこかの企業に就職します。そこで彼は悪いことをする人たちの罠にかかってしまうだろうと言うのです。悪いことというのは、例えば賄賂を受け取るとか、会社の金を横領するとかいうことであり、自分がそういう事件に巻き込まれてしまうということなのです。そして、もしそういう事態に陥った時、自分は決して助からないと話されたのです。
私は彼に「どこでそういう話を聞いたの」と尋ねてみました。彼はそういう情報をすべてフィクションの物語から学んだのでした。
そういう事態が生じないと断言することはもちろんできないのですが、大多数の労働者は悪に手を染めることなく生きておられるのです。
でも、おかしいのは彼がそれを語る時の語り方でした。まるで悪の一団が自分を落とし込もうとして企んでおり、自分はその一団に狙われているかのように話されるのです。
これは彼の空想であります。この空想は、彼がいかに社会や企業に対して、そこを恐ろしい場所であると体験しているかを表しているのです。彼は自分のその恐れを表現されているのです。でも、何とも漫画チックな発想ではないかと私には感じられたのでした。
こうした発想も彼らの「特有感覚」として捉えられるものだと思います。
(140―4)年齢との乖離
時々、彼らはどこからそういう発想をするのだろうと不思議に思うことが私にはあります。私もまた、彼らと面接していて彼ら特有の「ズレ」を感じ取ってしまうのです。
この「ズレ」の感覚をうまく表現することが難しくて、実は私も困っていました。本項を書き始めてから公開するまでに2年もかかっているのはその点にあるのです。
あまりこういうことを述べると、「ひきこもり」の人を非難していると思われてしまうかもしれません。私自身はそういうつもりで述べているのではないということを明示しておきます。
彼らの「特有感覚」は、ある意味では「マンガ的」とでも言い得るようなものであり、人によっては「世間知らず」と見做されるようなものであり、現実的なようでたくさんの非現実を含んでいるような感覚なのです。
採用面接の面接官も彼らからそういうものを感じ取っているのかもしれません。たくさんの人と面接している人であれば、彼らから何か一般とは違う独特な感覚を感じることがあるのかもしれません。
そして、この感覚は、私の印象では、どこか子供っぽいのです。これは見た目が若く見えるとか、童顔であるとか、そういう意味ではありません。
発想や感覚、あるいはその言動などがどこか「幼稚くさい」ように受け取られてしまうのです。そして、「ひきこもり」の「ベテラン」になればなるほど、現実の彼の年齢との乖離が強調されてしまうのです。
彼らを援助する際に、どうしてもそれは取り上げなければならない課題となるのです。私はそのように考えております。
(140―5)再び『チャンス』に戻って
「ひきこもり」の人たちが有している「特有感覚」なるものを、彼らが周囲の人たちと「ズレ」ているという感じを理解してもらうには、私の拙い文章では不十分だと思っています。
もし、「ひきこもり」をされている人と接しているという人であれば、私の述べていることが何となく「これのことか」という程度には分かってもらえるかもしれません。
ここで、私は冒頭で挙げた映画「チャンス」に戻りたいと思います。
屋敷を出た後のチャンスの言動は、やはり周囲とは「ズレ」ており、彼に「コモン・センス」が欠けていることを私たちは知るのです。
チャンスが車道の真ん中を歩くということは、彼が交通ルールを知らず、それが内面化できていないことを表しているのです。
ガードマンに植木のことで忠告するのは、彼が人それぞれにある役割というものが理解できていないことを表しているのだと思います。
しかも、彼は屋敷では庭師でしたが、外に出ても、いついかなる場面でも、彼は庭師として振舞うのです。これは彼が他のペルソナを被ることもできないし、その場面場面に応じて自己のペルソナを使い分けることができないということを示しているように思います。
不良グループに囲まれた時、彼はテレビのリモコンで応戦しようとしました。テレビの画面がそれで瞬時に消えるように、彼らもそれで消すことができると信じていたのでしょう。これは「魔術的思考」であり、彼がその思考段階にとどまっていることを示しているようです。
さらに、テレビのリモコンというものは肝心のテレビがなければまったく意味のないアイテムであります。彼はそれを持って屋敷を後にしたのです。このリモコンは彼の「補助自我」だったのだと思います。
また、こういうアイテムと言いますか、「補助自我」を必要としているという辺り、彼がいかに外の世界に対しての恐れを抱いているかを推測させるのです。
不良グループのリーダー格の捨て台詞を律儀に伝達しようとするのは、彼がコミュニケーションを理解できないということを示しているのだと思います。メタ・メッセージを理解し得ないのです。そのことは、彼がコミュニケーションに関しての体験がいかに不足しているかを示すものだと思います。
彼は外の世界で起きている事柄を理解できません。愛されるということがどういうことかも彼には理解できないのです。彼には庭師という顔とテレビの視聴者という顔しか持ち合わせていないのです。
もし、この映画をご覧になられた方で、チャンスの言動に「ズレ」を感じた覚えがあるという方であれば、私の述べている「ズレ」とか「特有感覚」というものが何となくでも理解していただけるのではないかと思うのです。
映画では、その「ズレ」が面白いように現実を動かしていくのです。映画としては、とても楽しい場面にあふれています。
しかしながら、このような「ズレ」や「特有感覚」だけで現実を生きていくことは困難なことなのです。
分量が多くなりましたので、ここで一旦、項を終えたいと思います。事項において、この続きを述べていくことにします。事項以下、事例を提示する予定でおりますし、「自己愛」との関連をも取り上げる予定でおります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)