<テーマ138>「書き手」の憎悪(2) 

 

(138―1)コンビニでのある体験 

 必要なものがいくつかあったので、これを書いている今朝、出勤前に私はコンビニに寄りました。駅前にあるようなコンビニです。品物を持ってレジに行くと、店員さんがレジを打ってくれます。会計がおかしい、私の計算と合わないと思ったので、私は店員さんにその旨を伝えます。店員さんは調べてくれます。すると、店員さんがある商品をレジに二度打ちしていたことが分かったのです。店員さんはレジを打ち直し、正しい金額を私は支払いました。ここで時間を食ったお陰で、私は電車を一本乗り遅れてしまったのでした。 

 その前夜から、私は人間の「悪意」について考えていました。その時、ふと、ネットの掲示板なんかに書き込む「書き手」はこういう体験を書きたがるのかもしれないなと思い当たったのです。あの店の店員はダメだとか、教育がなってないとか、サイテーだとか書いてしまうのかもしれないと思ったのです。 

 ところで、私はこの店員さんに何一つ怒りを感じてはいないのです。電車を一本乗り遅れてしまったけれど、それは私が十分に時間を見込んでいなかったためでもあるということが分かっているからです。 

 私が怒りを感じていないのは、被害がなかったというだけではなく、その店員さんの間違いが人間ならやってしまうというような類の失敗であると認識しているからでもあります。私も過去にはそれに類似した失敗をしたこともあるので、尚更、それが人間が犯してしまう誤りの一つだと見做してしまうのかもしれません。 

 ところで、それが人間的な誤りであるか否かということは、恐らく決着のつかない議論になるだろうと思います。実は、それはどちらでもいいのです。私が怒りを感じなかったこととそれは直接的には関係がないからであります。私が怒りを感じなかった根本原因は、その店員さんに「悪意」を見なかったからなのです。 

 もし店員さんが悪意を持っていたとしたら、きっと私は不愉快な気持ちを体験していたことでしょう。しかし、それでも私はその「悪意」が現実のものかどうかを検討してみたいと考えるでしょう。つまり、本当に「悪意」があったのか、単に「悪意」が私に感じられただけなのかということです。場合によっては、もともと「悪意」なんて存在していなかった所に、私が「悪意」を持ちこんでしまっている可能性だってあり得るのです。もし、そうだとすれば、その「悪意」は誰に属しているものなのかを確かめたいと私は思うでしょう。 

 

(138―2)「書き手」は決して自分自身を書かない 

 「書き手」のことをあれこれ書いてきていますが、私には「書き手」のしていることが理解できないでいるのです。理解できないから知りたいと私は思うのです。 

 現在において、私が主に知りたいのは以下の三点です。(一)「書き手」がある体験をして、それから「書き手」にどういうことが生じているのか。それから「書き手」が書き込むまでにどのようなプロセスを経るのか。(二)「書き手」はどのような状態においてそれを書き込んでいるのか。(三)「書き手」はそれを書くことでどのような種類の満足を得ているのか。この三点です。 

 こういう疑問点を掲げても、私にはそれらを考察するための手掛かりがまるでないというのが実情です。それは、「書き手」は決して自分自身を書かないからであります。「書き手」に関して、手掛かりや情報がまるで得られないために、これらを考える際には、すべて推測で行わなければならないのです。従って、私がこのテーマで書く事柄は、すべて私の推測と解釈によるものであり、もしかすると現実とはまるで一致していないのかもしれません。 

話を続けましょう。「書き手」は決して自分自身のことを書かないものです。たいていは誰か他の人のことを書くものです。その人との間でどういうことを体験したのかは決して書かないものだと私は捉えております。「書き手」は決して自分自身を見せないと述べてもいいかもしれません。 

 なぜ「書き手」は自分自身を書かないかということはまったく不明であります。個々の「書き手」によって異なるでしょう。自分を隠しておきたいという欲求があるのかもしれないし、自分自身を語ることの困難な人かもしれません。いずれにしても、「書き手」というのは姿を見せないものなのです。それが「書き手」の存在を不気味なものにしている一因なのだと思います。 

 決して姿を現さないし、自分自身のことを書かないし、読んでる側からすれば、相手が見えないわけであります。見えない相手からあれこれ中傷されるという体験を書き込まれる側はしていることになるのです。 

 

(138―3)「書き手」はどんな満足を得ているのか 

先述のように、私が「書き手」について書くのは、彼らのしていることが非常に気になっているからです。 

 私たちには「言論の自由」というものが一応は保証されています。だから「書き手」がどういうことを書こうと、そこには「書き手」の自由も尊重されなければなりません。同じように私にも、私が何を書き、何を述べるかについての自由が保証されて当然のことであります。そこは押さえておきたいのです。 

 その「言論の自由」ということを踏まえた上で、私は「書き手」が何を書いても構わないと考えているのです。そして私がここで「問題」としたいのは、「書き手」が何を書くかということではなく、「書き手」が何を得ているかということなのです。私が問題意識を感じているのはそこなのです。 

 この「問題」は言い換えればこういうことです。「書き手」はそれを書くことで、どういう種類の「満足」を得ているのかということです。この「満足」の種類や性質が問題であり、尚且つ、私が恐ろしいと感じているところのものなのです。 

 前項で私は悪とか残酷性とかいうことを述べました。カントの意見に私は賛成なのです。悪とは、人を攻撃して、傷つけ、それに喜びや満足を得るということなのです。時々、「書き手」はまさにこの種の満足を得るために書き込んでいるのではないかと思うことがあります。それは私にはとても恐ろしいものとして映るのです。 

 

(138―4)相手を貶めるということ 

 先ほどのコンビニの例に戻ります。店員が失敗をする。もし私がそこに悪意を認めれば、それは私の中にくすぶり続けるでしょう。その悪意は現実のものかもしれないし、幻想かもしれない。そういう区別を敢えて考察してみない限り、私にとって、その悪意は現実のものとして体験されていることでしょう。 

 私の気分はまったく晴れず、内面にもやもやしたものが居座り続け、内面が騒ぎ始めるでしょう。誰かにこれをぶちまけたいと思うかもしれません。この時、私が反応しているのは、店員の失敗ではなく、私が内面的に体験している、現実か幻想かよく分からない、「悪意」に対してなのです。私はこの「悪意」に曝され、あたかも迫害されたかのように体験しているかもしれません。 

 私はそこで掲示板にこのことをぶちまけるとしましょう。恐らく、私は悪意には悪意をもって返そうとしているのでしょう。これはいわば仕返しであり、復讐に近い感情であります。もし私がそれを書き込む時には、私は復讐の鬼となった自分を体験しているかもしれません。 

 さて、コミュニケーションとは基本的に相手が存在して成り立つものです。私が言葉を発するのは、他者や自分自身という対象に対してであることがほとんどです。こういう書き込みは対象を何に置いているのでしょうか。特定の誰かに向けて発しているものではないはずです。不特定多数の「読み手」に発しているということになるのです。そこで問題は、どうして不特定多数の人たちに、このたった一度会っただけの店員さんのことを伝えなければならないのかということにあります。 

 もし、親しい友人にこのエピソードを話すとすると、友人は「それはたいへんだったね」とか返答してくれるでしょう。不特定多数の対象に発するということは、少なくともこのような直接的な反応を求めて発しているのではないというように、私には思われるのです。もしかすると、「書き手」はそういうリアクションすら求めていないのかもしれません。 

 つまり、私が見たところでは、掲示板なんかの書き込みというのは、特定の誰かとコミュニケートすることを目的としたものではないということです。もちろん個々の「書き手」が実際にはどうなのか私は知らないのです。しかし、私がいろいろと読んだ限りでは、そのような印象を受けるのです。 

 「書き手」は不特定多数の「読み手」に対して、特定の誰かについて書くわけです。小学校の頃、私が隠しておきたいと思う秘密を、わざわざクラスの面前で公表するような先生がいたものですが、その時、私が体験するのは恥辱であります。私は「書き手」の目的も本当はここにあるのではないかと捉えているのです。 

 もし、私が先ほどの店員さんのことを掲示板にて悪しざまに書き綴るとします。その時、私がしているのは、この店員を貶め、辱めたいという欲求を実現化しているということになるのです。そして、そのようなことをしている時、私は人間という地平からはみ出してしまっている自分を発見するでしょう。 

 

(138―5)人間の共存在の地平からの脱落 

 「書き手」が書き込む時、それは私に対してでも他の誰かに対してでも構わないのですが、書く前に少しでも躊躇していると私は信じたいのです。この躊躇は、「書き手」の「心の健康」な部分が現れているのだと思われるからです。もし、私が同じ人間として、他者との共存在の地平に生きているなら、同胞である他者を貶めることに対し、躊躇いを感じ、激しい罪悪感を抱くでしょう。場合によっては書くことを思いとどまるかもしれません。それでも私が書き込むとすれば、私はその店員を多くの人たちの面前で辱め、価値を下げようとしているのであります。それで何か目的を達成したとか、満足感のようなものが得られているのだとすれば、私はすでに人間としての共存在の地平から外れてしまった存在に陥っているのです。なぜなら、私が他者との関係に生きており、同じ人間であるという感覚を抱いている限り、同胞でもある他者に対して、そこまではとてもできないと感じるからです。 

 つまり、これは私の個人的な体験であり、個人的感覚でしかないかもしれませんが、自分も相手も同じ人間の地平に立っているという感じを体験できている限り、相手を攻撃することに対して抑制が働くものなのです。腹が立つことがあっても、仮に相手に注意くらいはするとしても、それで相手を死に至らしめることはとてもできないと、私は体験するのです。同じ人間に対して、同胞に対して、とてもそこまではできないと私は体感するのです。 

 「書き手」が同じ人間である他者に対して中傷する時、自分もまたその相手と同じ人間であるという地平を自ら放棄してしまってまで、そういう書き込みをするものではないかと私は思います。従って、書き込みは自己毀損でもあると、私はそう捉えております。自己毀損という言葉が正しくないとすれば、自己疎外と言っても構わないものです。 

 もちろん、「書き手」がそういうことを分かって書き込んでいるとは思いません。書き込んだことによって、自分が人間社会から脱落したという意識を抱く「書き手」は、おそらくいないだろうと私は憶測しています。むしろ、すでに脱落してしまっているが故に、ああいう書き込みを平気でできるのかもしれません。いろいろあの手の書き込みを見ていくうちに、私にはますますそのように感じられてくるのです。 

 

(138―6)呪術的思考 

 このように考えていくと、書き込みは一つの呪術のようにも見えてくるのです。ある「書き手」は私の個人名を明記した上で誹謗、中傷しています。不特定多数の読者にとっては、私の個人名には何の意味も価値もありません。それでも個人名を挙げて書く必要がその「書き手」にはあったのでしょう。 

 私も個人名を出したことがあります。過去にECMという業者に騙された時のことです。私が個人名を出したのは、彼らが名誉棄損で私を訴え出てくれればいいと思っていたからです。でも、「書き手」が私の個人名を明記するのは、そういう明確な意図、意識的な意図を有していないだろうと私は捉えています。 

 それはちょうど相手の名前を口にすれば相手に呪いがかかると信じている未開民族の呪術と同じような感じなのではないかと、私は捉えています。そういう魔術的思考に彩られた年代に退行していた「書き手」だったのだと私は思います。 

 そして、未開民族の中には、同胞に呪術をかけた場合、一時的に同胞社会から隔離されるという制度を有している民族もあるそうです。つまり、同胞社会から脱落するのです。同胞に呪いをかけた者は、同民族としての共人間的な基盤を奪われるのです。 

 「書き手」にも同じようなことが起きているのかもしれません。でも、そこには共人間的な基盤を取り戻し、人間社会の中で生きることではなく、脱落したまま書き込みを続ける方を選んでいる「書き手」も多くいることでしょう。 

 「書き手」が中傷や誹謗を書き込むことによって満足を得ているとすれば、その一つの満足は、このような呪術的な満足であろうと私は捉えています。その代り、「書き手」は人間とのつながりを自ら断つことになってしまっているのです。いや、むしろ人間とのつながりを既に失っているからこそ、ああいう書き込みができるのかもしれません。 

 

(138―7)「それ」は誰もが持っている 

 前項でも述べましたが、もっともひどい残酷性とは、他人を傷つけ、貶め、それに満足を覚えることであります。他人を傷つけて喜ぶという行為であり、喜んで人を傷つける人たちであります。そこには他者に対しての共感性もなければ、自己の行為を振り返るだけの自我も育っていないのではないかという気がしています。でも、そういう人は実際に存在するのです。 

 しかし、そうした残酷性というものは、私たちの誰もが秘めているものだと私は捉えています。ただ、私たちがそれを剥き出しにしないのは、それを社会化して、昇華しているからに過ぎないのです。そういう感情や性向に別の違った水路をつけているのです。それが社会化の過程なのです。従って、人間はみな「書き手」が示しているものと同じものを内面に持っているものなのです。でも、「書き手」のようなことをしないのは、それを適切に処理できており、より望ましいものへとそれを置き換えてきたからだと言えるのです。 

 事実、子供はとても残酷なことをするものです。大人はついつい子供を美化して見てしまうことがあるのですが、一方で子供は残酷でもあります。子供がその残酷性を示した場合、大人以上に残酷なのです。憎しみを隠さないし、破壊する時には徹底的に破壊してしまわないといられないのです。破壊をやめるのは、破壊してしまったら、もうその玩具で遊べなくなるということを学ぶからです。 

ジャン・コクトーはそういう子供の破壊性や残酷性を作品の中で描いています。そういう子供の姿は、大人が見るととても怖いし、不快感すら覚えるかもしれませんが、それは同時に私たちもかつて有していたものに直面してしまうからだと私は思うのです。 

 しばしば「書き手」は育ってきた環境が悪かったからこうなったのだとか、そういう類の合理化をしたりします。確かに望ましくない環境でその人は育ったかもしれません。でも、その理屈は不完全なのです。それがそのまま彼らの中にあるということが問題なのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

PAGE TOP