<テーマ134> 怒り・不安・自己感情(3)
(前項からの続き)
(134―3)夫となる男性のこと
残念なことに、10代の頃の彼女がどんな生活をしていて、どんな人だったのかはほとんど分かりません。だから何とも言えないところがあるのです。ともかく高校までは卒業しました。そこから彼女は就職して、独り暮らしを始めています。
この独り暮らしですが、彼女は両親から離れたかったと述べておられます。これはもう少し言うなら、両親が与えるものから、両親が発散している雰囲気から逃れたかったということだったのでしょう。
でも、彼女は本当にそれから逃れることができたのでしょうか。これは実に疑問であります。なぜなら、彼女は既に自身の中に強い不安を抱えていたからであります。
当時の彼女は高卒の女性事務員の給料で独り暮らしをしていたわけです。もちろん、生活できないことはないでしょう。生活を切り詰めたり、贅沢しなければやっていけるでしょう。でも、この独り暮らしは彼女にはとても辛いものとして体験されていたようです。
もし、彼女がもっと人生や生活を楽しめる人だったら、貧しくとも、どこかで何か楽しみを見出したり、あるいは日々の中にあるちょっとした楽しい体験をそのまま享受することができたでしょう。辛くとも、人生の目標や仕事等への励みにおいて、充実感を体験したりもできたでしょう。でも、お話を伺う限り、どうもそうではなさそうなのです。貧しいということは、そのまま彼女にとっては人生の不安となっているようで、これはあってはならないことだということになっているのです。そして、肝心な点は、この不安は一部、もしくは大部分が、両親の抱えていた不安だったはずであるということであります。この不安については後に再度取り上げることになるでしょう。
さて、彼女は貧しさから抜け出せる機会を得ました。それは資産家の息子と知り合ったことです。これを読んでいる人から見ると、この男性はちょっと困った奴だと映るかもしれません。派手好きの遊び人タイプのように感じられる方もいらっしゃるかもしれません。でも、彼女にとってはこの男性がたまらなく魅力的に見えているのです。そして後にこの男性と結婚するのです。
彼女がこの男性に惹かれたのは、この男性の人間的な魅力というよりも、この男性が保障してくれそうな安全感にあったのではないかと思います。不安の強い人はそういう基準で何事も選択したりするものなのです。つまり、かつて彼女の祖父母が与えてくれていたものと同等のものが得られると彼女は期待していたのではなかっただろうかということなのです。
彼女は妊娠し、それを契機に彼と結婚します。結婚して明らかになったことは、彼の親が資産家であるというだけで、彼自身は一文無しに近い状態だということでした。それを知った時の彼女の体験したショックというものは想像に難くないでしょう。求めていたものがやっと手に入ったかと思った瞬間、それとまったく正反対のものを手にしてしまったというようなものです。再び楽園から追放されるようなものだったのではないだろうかと察します。
そればかりか、彼が結婚したのをいいことに、親が彼への援助を打ち切ったということです。結婚して一家の主になってみろという親の計らいなのでしたが、これは相当困難を極めたことでしょう。私から見ると、彼は一家の主になるにも、結婚するにも、本当はまだ至らない人物でした。仕事をするということの準備もできていないような男性だったのです。
一方、この男性は精力的なところもあり、情熱的なところもあるようで、一たび就職したら猛烈な勢いで仕事に精を出すのです。でも、こういう男性にありがちなことですが、一つ事を根気よく続けていくことができないのです。トラブルを起こして首になったり、突発的に辞職したりということをするのです。彼女はどんな思いでそういう夫を見ていたことでしょう。
そして、ある時、親の資産の一部が彼のものになるという幸運が舞い込むのです。彼女からすれば天からの授けのように思われたかもしれません。この男性はそのお金で派手に遊ぼうかと言うのですが、彼女は当然断固として反対します。そのお金で家を買ってというのは、彼女にとって本当に切実な願いだっただろうと思います。その家は、彼女の生活の基盤となって彼女を支えてくれるように思われたかもしれませんし、家自体が一つの財産となると考えたかもしれません。何も持たなくなること、失うこと、こうした事柄に彼女がどれほど不安を覚え、敏感に反応してしまうかを示すものだと思うのです。いずれにしても、何か足元の基盤になるようなものを彼女は本当に求めていたのかもしれません。
(134―4)「見る」から「見られる」への逆転
こうして彼女たちは一軒家に住むことになりました。ほどなくして、彼女がカウンセリングを受けに来るきっかけとなった出来事が生じました。お向かいさんとお隣さんとの関係であります。
住宅街の一軒家のようで、そこには他にもたくさんのご近所さんがおられるのです。でも、彼女が敵視するのはこの二軒に限定されているのです。それではお隣さんとお向かいさんにはどのような人たちが住んでいるのでしょう。
勘のいい方なら何となくお気づきになられているかもしれません。お隣さんとお向かいさんというのは、どちらも裕福な家庭なのであります。何でも、両家とも大手会社の重役クラスの人の家なのだそうです。だから立派な家であり、すごくゆとりのある生活を送っている(ように彼女には見えるの)でした。彼女からすれば、それは不安のない生活を手に入れている人たちということになるでしょうか。
彼女が望んでいても手に入れることができずにいるものを、彼らは手に入れているわけであります。その生活を彼らは当たり前のように享受しているのです。それを彼女は目の前で見せつけられているのです。だから、彼女は彼らを見るわけなのです。見てしまうわけなのです。
「おやっ」と思われた方もおられることでしょう。彼女は自分が見られているということを訴えていたはずではないかとおっしゃりたくなるかもしれません。話が逆転しているぞと思われることでしょう。確かに、彼女の方が彼らを見ているのです。でも、彼女の方が彼らに見られていると彼女には体験されているわけであります。彼らに監視されていると彼女が言う時は、彼女が彼らを監視しているわけであります。スパイされていると体験している時は、彼女の方が彼らをスパイしているわけであります。彼らが嫌がらせをしてくると体験する時は、彼らに嫌がらせをしたか、嫌がらせをしたいと願っているかしているわけであります。なぜ、このような逆転が生じているのかをここで考えなければならないでしょう。
そのためには、まず、彼女がどんな思いで彼らを眺めていたかに思いを馳せてみなければなりません。彼らは彼女から見て望ましい生活をしているわけです。彼女にとって喉から手が出るほど、心底から望んだような生活を彼らはごく当たり前のように送っているわけです。こういう時、眺めている彼女にはどんな感情が湧いてくるでしょうか。
恐らく、それは羨望であり、嫉妬といった感情になるでしょう。羨望や嫉妬というのは、自分が所有していないものを他の誰かが所有しているという状況で発動される感情のことであります。その感情は怒りに近い性質を含んでいると私は考えています。そして、それが当人にとって価値のあるものであればあるほど、自分がそれを所有しておらず、他の人がそれを所有しているという状況が耐えがたく感じられることでしょう。つまり、それがその人にとって価値があればあるほど、その人は強い嫉妬や羨望を体験するわけなのです。
所有している相手に羨望や嫉妬を体験するということは、一方では、自分が確かにそれを所有していないのだという現実を突きつけられているということでもあります。相手が所有していて羨ましいなあと感じている時、自分がそれを所有していないということを人は一層強烈に実感してしまうものなのです。
この時、自分がそれを所有していないということをどうしても認めたくない場合、どういうことが起きるでしょうか。
その場合、一つの方法として、自分の方がそれを所有しているということにしなければならなくなるのです。しかし自分がそれを所有していないということもしっかり見えているものです。でも、そこをさらに否定し、否認するならば、自分は所有していないのだけれど、相手の方が自分に嫉妬しているということにしなければ折り合いがつかなくなるのであります。ここで逆転が起きているのであります。
彼女は望んでいながらそれを手に入れていないのです。彼らは彼女が望んでいるものを獲得しているのです。更に言うなら、「私は奪われたのに、彼らは与えられている」という感情になるでしょうか。彼女の過去の様々な境遇に関しての感情もこれに絡んでくるので、彼らに対してはもっと複雑な感情を彼女は体験していたことでしょう。だから、怒りというよりも、嫉妬や羨望といったもっといろんな感情を伴った憎悪の眼差しを向けていたと述べる方が妥当なのかもしれません。
ところで、彼らを見れば見るほど、自分がいかに惨めであるかを思い知らされるとしたらどうなるでしょう。当然、彼らを無視するなんてできないことです。無視するにはあまりにも感情が掻き立てられてしまっているからです。だから彼らのことは他人事にはできないのです。でも、自分のその惨めさは直視したくないとなれば、彼女はここで大変なジレンマ状況に置かれることになるのです。
人間の心というものは、こういうジレンマに対して、どうにか折り合いをつけるように働くのです。精神分析で言う自我の防衛機制というのは、そうした折り合いをつけることだと理解して間違いではないのです。
こうして結果として、こういう折り合いのつけ方になっているわけであります。彼女は彼らを憎悪の眼差しで見ているけれど、彼らの方が憎悪の眼差しを彼女に向けてくるのだ。向こうが見てくるのだから、こちらも警戒して向こうを見ていいことになる。だから彼らを無視しなくてもいい。つまり、彼女が彼らを見るのは正当なことだと感じられるのです。彼女が彼らを敵視するのは、彼らの方が悪意ある目でこちらを見てくるからであり、だから彼女の怒りや敵意もまた妥当な感情だと体験できる。これも一つの正当化になるのでしょうが、こういう折り合いがついていったのではないかと私は憶測するのです。
ここで強調しておかなければならないことは、彼女が意図的にこういうことをしているのではないということです。彼女自身も知らない間に、いわゆる無意識的にそういうことをしてしまっているということです。
本項も、たいへん長文となってしまいました(冒頭のぼやきが余分だったのですが)ので、いささか中途半端ですが、ここで一旦、項を改めたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)