<テーマ124> 「神経症」的な生き方(2)~完全主義(続)
(124―5)完全主義は自己分裂を引き起こす
また、完全主義に陥るということは、その人の中で容認できる部分と容認できない部分とを分割してしまう傾向を生み出すものです。容認できない事柄はすべて切り離さなくてはならなくなります。しかし、自分の中で切り離された部分は、その人にとっては「あってはならないもの」となり、「秘密」となり、「タブー」となり、「コンプレックス」になっていくわけです。
そして、それらは他者に対して隠されているというだけではなくて、その人自身に対しても隠されていることが多いのです。
当人自身にも見えなかったりするのですが、それらが存在しているということは、別の形でその人に現れるので、私たちはそういう隠された物の存在を知ることができるのです。
それらは、その人に罪悪感や恐怖感、劣等感として体験され、そういう形でその人を責めさいなむことになるのです。
こういう分割を私たちは多少なりともしているものです。しかし、完全主義的な人ほど、これを劇的な形で、大仰にしてしまうものなのです。
例えば、部屋を完璧に掃除しなければいられないというような人を考えてみましょう。彼は隅々まで念入りに掃除します。一日の大半はその作業で費やされています。部屋の中はピカピカです。
しかし、彼が窓のレールに微かの埃を発見してしまったとしたらどうなるでしょう。この埃は彼の中にある種の「よくないもの」として君臨することになります。彼はこの埃を発見するべきではなかったのです。この埃のために、彼は自分自身がとても不完全に見えてしまうのです。これを発見してしまった自分を許すこともできないのです。
こうした感情は彼には強い恐怖感や不安感として襲いかかってくるのです。誰かが部屋に来て、「部屋がきれいだ」と言ってくれたとしても、彼の心は落ち着かないでしょう。そればかりか、彼は自分の不完全さを隠さなければならないと感じるでしょう。この時、窓のレールに残った埃は、彼の中で触れてはならない「タブー」のような存在になってしまい、その程度のことでさえ、彼は多大に苦しまなければならなくなるのです。
友人が訪れて、部屋のきれいさを評価しても、彼は窓枠の埃に支配されてしまって、せっかく来てくれた友人を追い返したり、外に連れ出したりするかもしれません。彼にとって、容認できない部分は、それが些細なことであれ、彼の全人格を占めてしまうのです。彼の完全主義傾向がそれにさらに拍車をかけているのです。
こうして、彼は、彼を脅かす些細な事柄であっても、大きく脅えなければならない現象として体験されてしまうのです。彼が人から言われて傷つく言葉というのがありまして、それは「それってそんなに大事なことなの?」という一言でした。周囲の人には些細なことにしか見えないのですが、彼からすると、その些細なことが彼に大打撃を及ぼすのでした。だからそれを否定されるような言葉を周囲の人から聞いてしまうことに、彼は耐えられないのでした。
(124―6)失敗は許されない
ある人が完全主義であるかどうかということは、あるいはどれくらい完全主義であるかということは、その人の使う言葉に注目すればよく分かるものです。大抵の場合、完全主義傾向が強いほど、「~しなくてはいけない」とか「~すべきだ」とかいった表現が多く見られるものです。「絶対~だ」とか「~はだめだ」とかいった表現も同様です。そういう表現は自分自身や他者に対して用いる傾向が強くなるのです。
クライアントがよく表現されることの一つに「失敗は許されない」というものがあります。人間の活動の中には「失敗は許されない」というものがまったくないわけではありません。でも、そういうのはかなり特殊な活動ではないかと私は思います。私たちの活動の大部分は、「失敗はしない方がいい」とか「失敗しないにこしたことはない」といった程度のものではないでしょうか。
そしてその人が何か小さな失敗をするとします。大した失敗ではないことです。せいぜい皿を割ったとか、待ち合わせに少し遅れたとかその程度のものだとします。そういう失敗をしたからといって、何もその人の命まで取ろうなんて人はいないだろうと私は思うのですが、いかがなものでしょうか。
でも、完全主義傾向が強い人にとってみれば、その程度の失敗でさえ、致命的に体験されていることも多いものです。そしてそういう失敗をしてしまった自分が許せないだけでなく、それだけで人の評価やこれまでその人が築いてきたものが一瞬にして崩壊してしまうように体験されていることもあるのです。
ここまで述べてきたことも含めて、完全主義的な人が幸福に生きることがいかに難しいかということが見えてきたら私としても嬉しい限りです。
(124―7)根底にある不安
人が完全主義に陥るのは、その人の抱えている不安によるものです。大部分の完全主義は自分の不安に対処するために発展させてきた傾向であると言えるのです。
本項の初めに完全主義は融通性や柔軟性の喪失の一つの帰結であると述べました。その根底にはやはり不安があるのです。
融通性や柔軟性が欠ける人にとって、もっとも困難な場面は自由にしていいという場面ではないかと思います。自由度が高いほど、その人の抱える不安が高まるのです。それに対して、その人は一つの決まりきったやり方で対処しなければいられなくなるのです。
何事も決まりきった一つの枠に収めることは、それが変容したりすることに対する恐怖感を鎮めてくれるものです。「あれもあり、これもあり、そういうのもあり」では不安で、受け入れられないとすれば、「こうでなければならない」という枠に従わせる方が安全だと感じられるのです。
完全主義は不安に対処する一つの方法だと言うことができるのですが、それによってその人はほんのわずかの満足さえ得られないのです。極端な完全主義においては、満足することさえないかもしれません。そういうやり方で不安に対処できていたとしても、その為に犠牲になる事柄も多大なものなのです。
自分の完全主義傾向に気づいて、この完全主義を止めようと思われる人もあるのですが、皮肉なことに、それをまた完全主義的にやられるのです。完全主義的に完全主義から抜け出ようとされるのです。
従って、完全主義から解放されたいと願うのであれば、完全主義を止めることではなく、その完全主義を生み出している不安に対処しなければならないということが言えるのです。
しかし、完全主義の人は、この不安に対しても完全主義的に覆いをかけているものなのです。こうして、しばしば、その人は自分の完全主義的傾向に手を付けずに生きているのです。
(124―8)完全主義の悲劇
物事も他人も、また自分自身でさえ、人は完全にコントロールすることはできないものです。いかなるものも完全には動かせないし、思い通りにいかないものです。完全ではない対象に対し、完全主義的な人は完全を求め、それを達成しようとします。もともと不完全にしかできない事柄を完全にしようとするということは、必ず失敗するということが決定づけられているということです。
完全主義的な人は、完全でない自分を発見した時には、自分を完全主義的に攻撃し、自罰したりします。それは自分が許せないという感情であります。
その人にとっては許せない事柄で人生が満ち溢れていることでしょう。当然、自他に対して非常に厳しい考え方を発展させることでしょう。完全主義的に物事を追及していって、やがてはその人は疲弊し尽してしまうでしょう。
極端な完全主義の人は、こうして自ら破綻していくのです。自分の一生は挫折と失敗の連続だったと、彼はこれまでの人生を振り返って述べることになるでしょう。これは悲劇以外の何物でもないと、私には思われるのですが、これをお読みのあなたはどのようにお考えになられるでしょうか。
(注1)
何でも新品の状態で使用したいというこの男性の例ですが、私はここでは単純に完全主義の傾向として述べました。実際には、この問題は同一性と同一性が成立する基盤に関する問題を孕んでいるものであり、もっと複雑な内容を持っているということをお断りしておきます。
例えば、私が今日買った車があるとします。毎日これに乗るとします。一年後にはかなり傷んでいる部分も生じているでしょう。しかし、私はこれが一年前に買った車と「同じ」車であるということが分かっており、私の中で一年前の新車と今の使い古した車とが同一であるという関係が成立しているのが分かります。これには、この関係が成立しているということと、この関係が成立している場があるという二つが前提条件として考えられるのです。私の受けた印象では、この男性はこの二つの条件を生み出す部分に困難があるようでした。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)