<テーマ115> 「怒り」について
(115―1)怒りの感情には対象がある
(115―2)怒りの処理に失敗してしまう
(115―3)一つの感情はその他の感情へと発展する
(115―4)怒りは伝染し、新たな怒りを生む
(115―5)自分の怒りに気づいているだろうか
(115―6)怒りは人間の不幸の根源
(115―1)怒りの感情には対象がある
「怒り、敵意、憎悪」というページを新たに設定しました。このような言葉を聞いて、自分にも思い当たるものがあると体験される方も多いのではないでしょうか。とても日常的で、且つ、重要なテーマだと思います。
怒り、敵意、憎悪といった感情は、しばしば良くない感情と判断され、忌避される傾向があるようです。それでも、これらは私たち一人一人にとって重要なテーマでありますので、丁寧に見ていくことが必要であると私は考えています。
根本に怒りがあり、それが敵意へと発展し、やがて憎悪に至るというのが私の捉えている基本的な流れです。そこには常に対象があります。この対象は他者の場合もあり、自分自身の場合もあり、また物であったり、世界であったりもします。こうした対象との関わりにおいて、その人に様々な感情が体験されます。
怒りの感情がどのように発展するかは、その対象との(多くは内面的な)関わりによって決まるのです。
また、この対象も様々であり、時に不鮮明です。怒りをもたらしたそのものの対象に怒りを感じることもあれば、それに類似した対象に怒りを感じることもあり、時には(と言いますか、多くは)その対象とはまったく無関係な対象に怒りの感情を体験したりすることさえあります。
さらに、人がどのようなことで怒りを体験するかということは、極めて個人的な事柄です。従って、ある事柄が、ある人にはまったく無害であるのに、別の人では怒りの感情を駆り立てるということも生じるのです。
詳細は後々述べていくつもりですが、まずここで押さえておきたいのは、怒りの感情には常に対象があるということです。その対象との関係において、怒りが生じ、その怒りが敵意となり、憎悪へと発展していくということなのです。そして、それによって発動される行動もまた、何らかの対象へ向けられるということです。
(115―2)怒りの処理に失敗してしまう
ところで、なぜ怒りという感情が特別に大事なのかということを述べておきましょう。その理由の一つは、これを適切に処理することが時に困難であり、人はしばしばそれに失敗してしまうからです。
カウンセリングを受けに来るクライアントのほぼ100%が、なんらかの形で怒りの処理というテーマを抱えているものです。これは決して誇張して述べているのではありません。そして、その怒りに対して適切な処理がなされないために、さまざまの二次的な「問題」をクライアントは体験されていることが多いのです。
つまり、私が問題として取り上げたいのは、怒りという感情そのものだけではなく、その感情の処理も含むことになるということです。
処理という言葉は語弊があるかもしれません。処理という言葉で言い表していることは、それをどう取り扱うか、あるいはどう付き合っていくかということであり、本当ならそのような表現を用いるべきなのです。しかし、文章が煩雑になるかと思うので、今後とも「処理」乃至は「対処」という言葉を用いることにします。
(115―3)一つの感情はその他の感情へと発展する
人間は単独の感情を体験するということはまずありません。一つの感情はその他の感情と密接に結びついており、最初にあった感情が発展して姿を変えていくということもあります。
怒りの感情も、そこから敵意や憎悪に発展するものですが、それだけではなく、怨恨、自己嫌悪、恐怖、嫉妬、羨望といった感情と、また失望や絶望、欲求不満、自己憐憫などの感情などと関係し、さまざまに発展していくこともあるのです。
それが表される行動もさまざまです。怒りは、攻撃になり、時に戦争になり、殺人や犯罪にも発展するものです。教師が生徒に体罰を加える時も、母親が我が子を虐待してしまう時も、あるいは社会人が同僚をいじめる時にも、人が自分の手首を切るという時にも、すべて怒りの感情が関与しているものです。
ネットで中傷の書き込みをするというような時にももちろんです。暴飲暴食をしたり、浴びるほど飲酒したり、薬物などに耽溺するということにも、あまりに加虐的になることや被虐的になることにも、やはり怒りが関与していることが認められるのです。
頻繁に事故を起こしたり、病気に罹ったり、破産したり、失敗したりということにも、当人はあまり意識はされないのですが、やはり根底に怒りの感情が潜んでいることもあるのです。不安やうつの背景にも怒りが潜んでいることも多いのです、さらに、怒りは敵意や憎悪へと発展し、それが差別や偏見、社会的弱者を生み出す基になることもあります。
人がストレスから身体の病気に罹ったというような例はたくさん耳にします。このストレスというのはしばしば怒りのことです。怒りを処理できなかったことの一つの証拠が偏頭痛であったり、胃潰瘍であったりするのです。つまり、人によっては、怒りの感情を身体の病気に発展させてしまうのです。
ここで押さえておきたい点は、怒りという感情を処理すること、乃至は、その処理の失敗ということは、必ず行動や身体に現れるということです。
(115―4)怒りは伝染し、新たな怒りを生み出す
怒りの感情にはしばしば厄介な傾向や特性があるのです。伝染性というのはその最たるものではないかと私は捉えております。
怒りは他者に伝染することがあるのです。怒りに駆られている人の傍にいるだけで、こちらも怒りを感じてしまったというような経験をされたことはないでしょうか。
私はこのような体験をしてしまった時、その人から「怒りをもらってしまった」と表現するのです。そもそも私は怒りを感じていなかった。しかし、非常に怒りの感情に駆り立てられている人と関わっているうちにこちらもイライラし始めたとすれば、その怒りはもともとは相手のものだったはずです。
しかし、それが相手の所有していたものであったとしても、一旦伝染した怒りは、私の怒りとして体験されてしまっているのです。こういうことが生じると、一体、それが誰の怒りだったのか、誰に所属していた怒りだったのかが、私自身にも見えなくなってしまうのです。厄介だと言うのは、そういう意味なのであります。
感情というものは、それがどのような感情であれ、多かれ少なかれ、その感情を体験している個人の周囲に影響を及ぼすものです。あらゆる感情は伝染性があると言っても構わないのです。ただ、怒りの感情というのは、その他の感情と比べて、とても強力に周囲に影響を与えてしまうのです。伝染性があると言うのは、それが相手と自分との境界線を踏み越えてまでこちらに迫ってくるということであり、怒りの感情はその他の感情よりもはるかに強力に伝染するということです。
また、怒りを向けられた人、つまり迫害され、侵入され、奪われ、傷つけられた人にもその人の中に怒りの感情を生み出し、その人の内面を掻き乱すのです。そうして怒りが新たな怒りを生み出すのです。怒りを向けられた人は、復讐という形で新たな怒りを表現してしまうのです。
児童虐待で、よく虐待の連鎖などと言われる現象があるのを御存知かもしれません。それは親との関係で築いた怒りを我が子で復讐しているようなものなのです。そして、そうして育ったその子は、怒りを掻き立てた親に対してではなく、さらに自分の子供を相手に復讐を果たしてしまうということであります。復讐された人は、さらに相手に対しての怒りを増大させてしまうかもしれませんし、新たな敵意の矛先を見出さなければならなくなるということも生じるかもしれません。
一人の人の怒りはこうして周囲の人だけに伝染するだけではなく、広範囲に影響を及ぼし、連鎖していくものです。
(115―5)自分の怒りに気づいているだろうか
怒りということは、私たちにとってはとても身近な問題であり、広く見られる現象です。そして、これは適切に対処し、処理していくことが困難な感情であり、多くの二次的な問題を生み出しているのです。それは広範囲に影響を及ぼす感情なのです。ここまでで述べてきたのはそういうことです。しかしながら、私たちの多くは怒りの感情に関して、非常に盲目でさえあると言えるのです。
なぜうつ病や自殺が社会問題化するほど増加したのでしょう? 児童や老人への虐待、あるいは恋人や配偶者に対するDVがなぜ減っていかないのでしょう? モンスター・ペアレントであるとか、クレーマーとかいう人たちを動かしているものは何でしょう? ネットが炎上するほど書き込まれるのはなぜでしょう?
また、アクション映画や暴力的な映画がなぜ受けるのでしょう? さらには、サスペンスドラマが長期にわたり量産されるのはなぜでしょう? バトルもののゲームがなぜあれほど流行るのでしょう? お笑いブームなどといわれるものがありますが、なぜ人は笑いを求め、どのような笑いを芸人は作り出しているでしょう? 人はなぜあれほどスポーツ観戦に熱中するのでしょう?
あなたの周りにはいらっしゃらないでしょうか。やたらと皮肉や嫌味を言ったり、陰口を叩いたりする人はいないでしょうか。誰かを槍玉に上げたり、スケープゴートにしたがる人を見かけないでしょうか? 差別的な言葉を吐いたり、偏見で決めつけたり、非難、中傷を平気で口にするような人はいないでしょうか? 特定の人や一部の立場の人を攻撃したがる人や、人を傷つけなければいられないように見える人はいらっしゃらないでしょうか?
もっと例を挙げることもできるでしょう。根底にあるのは、その人が自分の怒りに対して気づいていないということです。いや、怒りの感情を自覚している場合もあるでしょう。しかしながら、何かもやもやしたような感情であったりしていることも多いのではないでしょうか。何に対しての怒りであるのかが本当に当人に理解されているでしょうか。いずれ詳しく書こうと思っているのですが、自分が本当は何に怒りを感じているのかを理解すれば、その人はそれに対してより適切な対策を立てるようになるものです。そして怒りに身を任せるということがより減少していくものなのです。
上に挙げたような例(あくまでも一部でありますが)は、すべてその人が自分の怒りをきちんと見ることに失敗した人たちであると言っても過言ではないと私は思うのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)