<テーマ103> 自傷者の痛み
(103-1)感じる痛みと感じない痛み
私が高校生の頃、当時は陸上部で毎日走り込んでいたのですが、足の裏に血豆ができ、古い血豆が完治する前に新しい血豆がその下にできるので、足裏がひどい状態になったことがありました。それがとても痛いのであります。それでも、練習はしていたのですが、ある時、あまりに足の裏がぐちゃぐちゃになっていたので、練習終、私は保健室へ行ったのです。私の足の裏を見るなり、保険の先生が「こんなになるまで走って」と言って、「あなたは我慢強い」と言ってくれたのを覚えています。不思議なことに、これはとても痛かったのですが、練習中は痛みを感じていなかったのであります。
私たちは時々、事故や災害でたいへんな負傷を負いながら、必死になって逃げのびたという人の話を耳にすることがあります。無我夢中で逃げて、痛みどころではなかったなどというように、その人たちは回想して語られるのであります。不思議な話であると私は思うのであります。
私たちの体には神経が通っているので、怪我をすれば必ず痛みを感じるはずであります。でも、状況によってはこういう痛みを感じないということが起きるということであります。
これをお読みになっているあなたにも、そういう経験がもしおありであれば、少し思い出していただきたいのであります。つまり、怪我などをして、当然痛みを感じていいはずなのに、その時は痛みを感じなくて、後になって物凄く痛いと感じた、あるいは痛みを思い出したというような経験であります。その時、あなたにはどういうことが起きていたのでしょうか。
(103-2)緊張感と痛み
このことに関して、脳内の特定の物質が分泌されて、感覚を麻痺させているのだというような説明を聞くことがあります。私はその説を否定しません。このことがとてもよくあてはまる場面もあるからであります。痛みに耐えていると、眠気を催すような、何とも言えないぼんやりした感覚を覚えたという体験を私は幾度かしたことがあります。その時には、きっと、私の脳内でそのような物質が分泌されて、感覚を麻痺させてくれて、痛みを耐えやすいものにしてくれていたのでしょう。体の知恵がそういう具合に働いてくれたわけであります。
ですが、冒頭に例として挙げた高校生の頃の体験では、私はそのような「解離」のような状態ではなかったのを覚えております。むしろ、逆に神経が研ぎ澄まされ、練習に集中していたのを覚えております。
恐らく、事故や災害で負傷を負いながらも逃げ延びたというような人も、それほど「ぼんやり」した感覚ではなく、むしろ神経が研ぎ澄まされていて、逃げるという一点に集中していたというように語られるのではないかと思います。
つまり、このような例では、心理的な緊張感が、当人をして痛みを感じさせなかったのだと思われるのであります。ですから、「心理的な緊張感や緊迫感は、肉体的な苦痛よりも優位である」と私は捉えているのであります。
(103-3)爪を剥がしていた女性の例
ここで本題に入ります。本項で取り上げたいのは、自分を肉体的に傷つけずにはいられない人は、肉体的な痛みを経験しているかというテーマであります。
私が知り合った一人の女性を例に挙げます。彼女とはもう会うこともなくなったのですが、彼女は、当時、私の「パフェ友」(一緒にパフェを食べる友達という意味で、私の造語です)だった人でした。彼女の話をいろいろ伺っていると、彼女は子供の頃、自分の爪を剥がして遊んでいたという話をされました。確か、小さい頃はどんなことをして遊んでいたかというような話題だったと思います。私は彼女から女の子らしい遊びが聞かれるかと思っていたのでしたが、意外と生々しい話が登場したので、非常に驚いたのを覚えております。その時に「痛くなかったの?」と尋ねたのだと思います。彼女は、自分の爪をいくら剥がしても、痛くなかったというように話されたのであります。
痛みを伴う行為であるはずなのに、痛みを体験していないということが、当時の私にはとても不思議だったのであります。ある臨床家の先生が彼女のことを「解離性の傾向がある」と指摘されていましたが、私は何となく腑に落ちたような、落ちないような、はっきりしない印象を受けたのを記憶しております。彼女は、いわゆる「トランス状態」のような状態において自分の爪を剥がしたのだろうかと疑問に感じたのであります。
でも、彼女ははっきりと意図して自分の爪を剥がしたように語られるのであります。どちらかと言うと、意識は清明で、「トランス」や「解離」状態でそれをしたという感じには受け止められなったのであります。あの時、どんな状態でそれをしたのか、きちんと訊いておけば良かったと、今更ながら後悔しているのであります。
彼女の家庭はとても複雑だったようであります。少しだけ耳にしたのですが、彼女はこれまでに繰り返し苗字が変わってきたようであります。詳しいことを彼女は語ってくれなかったので、もはや確かめようもないのでありますが、家庭の中では緊張感が絶えなかったのではないかと察します。虐待があったというような話も彼女からは聞けませんでした。あったかもしれないし、なかったかもしれないということであります。彼女が痛みを感じなかったのは、彼女自身が緊張感や緊迫感を体験していたからではないかと今では考えているのであります。この緊張感や緊迫感というのは、彼女の家庭に漲っていたもので、彼女自身が内的にそれを体験していたのだろうと私は推測するのであります。もしそうだとすれば、彼女がその緊張感や緊迫感をもっと言葉にできていれば良かったのであります。いずれにせよ、彼女が爪を剥がす時、痛みを体験する以上に、彼女にとってもっと切羽詰った何かがあったのだろうと私は思います。
(103-4)自傷者は痛みを感じるか。
自傷行為をする人は、痛みを感じないというように表現されることが多いのであります。なぜ痛みを感じないのかということを考えてきました。それを生理学的に説明することも可能でありますし、その説明は正しいものであると私は捉えております。ただ、それを脳内のホルモン分泌などで説明することは、その人の置かれている状況を度外視しているのであります。従って、その人の心理的な面をも考慮しなければならないと私は考えるのであります。
私は自分の体験から、また、見聞した事柄から、「心理的な緊張感や緊迫感は、肉体的な痛みより優位である」という見解を採っております。優位であるということは、心理的な事柄の方が肉体的な事柄に勝るという意味合いであります。痛みを感じる以上にその人が心理的な緊張感などに囚われている場合、痛みは感じられなくなるということであります。
このように考えますと、自傷行為を繰り返してしまう人が取り組まなければならないのは、その人をしてそこまで追い詰めている心理的な緊張感や緊迫感の方であると、私には思われるのであります。
ところが、これは言葉で言うほど簡単ではないということも理解できるのであります。強い緊張感や緊迫感を体験していたとしても、繰り返される自傷行為のためにこの感情体験が希薄になってしまうからであります。自傷行為が繰り返されるのは、その行為によって、不快な感情が緩和されるという側面があるからであります。従って、緊張感や緊迫感を言葉で表現して欲しいと私が願っていても、そういう感情が本人から意外と離れてしまっており、本人にもはっきり掴めないということもあるのであります。
自傷行為がなぜ当人に解放感をもたらすのかということは、項を改めて考えていくことにします。最後に、自傷行為を繰り返す人が回復するとすれば、どこにそういう兆しを認めることができるだろうかという点に関して私の見解を述べておきます。
これは逆説的なのでありますが、自傷行為をして、本当にそこに身体的な痛みを体験するということであります。本当の意味で肉体的な痛みを体験するようになれば、その人は良くなっているのだと思います。なぜなら、痛みを感じるようになるということは、その人が強い緊張感や緊迫感への囚われから解放され始めているということを意味するように考えられるからであります。そして、その身体的な痛みから、その人本来が体験している方の痛みに目を向けることができればよいと私は考えております。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)