<テーマ101> 「心の躍動性」

 

(101―1)常に活動する生

 冬枯れの桜の木は、一見死に絶えたように見えても、私たちが見えない所で生の営みを続けているということを<テーマ100>で述べました。冬眠している動物は決して死んでいるわけではなく、じっとしているとはいえ、生を営んでいるのです。見た目には分からなくても、生命は常に活動しているものです。生命、身体が常に活動しているのと同じく、「心」もまた常に活動しているものであると、私は仮定しています。

 この「心の活動性」のことを、私は敢えて、「心の躍動性」と呼ぶことにしています。と言うのは、心はただ受動的に活動しているだけでなく、もっと積極的で躍動的に活動するものだからだと思うからです。人間の心というものを、私はそのように捉えているのです。

 心は常に躍動的に活動しているものです。あることに考え耽ったり、思いに沈んだりすることも躍動の一つでありますし、閃いたり、連想が働いたり、思いついたりすることも「心の躍動」であります。「こんなことをやってみよう」とか「こういう具合に今度はしてみよう」とか、将来に目を向けたり、指針を持ったりすることも、やはり「心の躍動性」なのです。

 また、心は常に対象を求め、対象と関わろうとします。心は常に感情をその人の内に生じさせます。そして心は自分自身や世界を広げようとしていくものです。それは死に絶えたように見える冬枯れの桜の木であっても、生きるためにより広く根を張り巡らせ、枝を伸ばし、そうして自己を拡張していく動きと重なるように私は思うのです。躍動的な心は自己を広げ、自己の中に何かを生み出し続けるものなのです。

 

(101―2)躍動性の喪失

 「うつ病」と診断された人の本当の苦しみは、心のこうした「躍動性」が失われることです。私はそのように理解しています。

<テーマ20>で、私は「うつ病」について書かれた本は、「うつ状態」「うつ症状」には当てはまるけれども、「うつ病」には当てはまらないものが多いと述べましたが、その理由はこの「心の躍動性」ということにあります。心が本来有している躍動性ということにまったく触れずに、思考を変えるとか脳内の物質がどうこうという話をしている本が多いように思うのです。

私から見ると、「うつ病」とは「心の本来の躍動性」が損なわれることであり、それがこの「病」の本質であると捉えているのです。ところが、この本質的な部分を取り上げないで、周辺的な事柄を取り上げているものが多いように思うのです。もちろん、これは私の個人的な見解でありますが。

 確かに、「心の躍動性」などという概念を持ち出すと、それは医学や生理学を超えて、哲学的な命題になっていくかと思います。そこまで話を広げないようにされている著者もおられるかもしれません。

 

(101―3)誰もが躍動的な心を持っている

 さて、人間の心は躍動的であり、本来的に、エネルギーに満ちているものだと私は捉えています。この躍動感やエネルギーの存在を確認しようとするなら、幼児や子供を観察すればよいでしょう。彼らはまだ人間本来のものをそのままの姿で表現していることが多いのです。彼らを見れば、「心の躍動性」ということがどういうことなのか見えてくるのではないかと私は思いますので、子供と接する機会のある方は、是非、子供から学ばれるとよろしいでしょう。

 後に「うつ病」と診断される人であっても、子供の頃はそのような躍動感に満ちていたものです。実際、「うつ病」と診断された人が回想する子供時代には、彼がそのような躍動感の中に生きていたことを示すエピソードがいくつも確認できるのです。生まれながらにして「うつ病」だったという人を私はこれまで見たことがありません。また、こういう「心の躍動性」をまったく持っていないとか、一度も経験したことがないというような人にも会ったことはありません。

 「うつ病」の人が苦しんでいるのは、繰り返しになりますが、決して脳内物質に苦しんでいるのでもなく、歪んだ認知や非論理的な思考に苦しんでいるのでもありません。その人にかつてあったはずの躍動感が今は失われてしまったということが苦しいのだと私は捉えています。従って、「うつ病」が「治る」ということは、脳内物質を正常な分泌に戻すことではなく、論理的な思考を習得することでもないと私は捉えています。それらは二次的に必要なものであるとは言えるかもしれません。それよりも、もっとも肝心なのは、彼の心が本来有しているはずの「心の躍動性」を再び回復することなのです(注1)。

 

(101―4)「心の躍動性」の回復

 では、どうすれば「心の躍動性」が回復するのかということですが、一言で言えば、自分の心に気づき、触れるという体験を通じてであると私は捉えています。

 「うつ病」と診断された人の話を聴いていると、彼らがいかに自分の内面を疎かにして、外側のことを重視してきたかということが窺えるのです。彼らは自分の心に気づいたり、触れたりするという経験をしないような生き方をしてきたのです。こうして、自分の心はないがしろにされたり、二の次のこととされたり、ひどい時には無視されたり遠くへ押しやったりしてきているのです。「うつ病」はこうした生き方の一つの結末であると理解しても、あながち間違いではないと私は考えております(注2)。

 作家志願の「うつ病」女性のことを述べたことがあります(<テーマ32>参照)。彼女の小説を読ませていただいた時、作品そのものはよくできていたと感じましたし、文章も上手でした。ただ、どうしても主人公に共感することが難しかったということを述べたと思います。この主人公は、彼女の一つの分身というか、書いた時の彼女の心をそのまま生きていたのだと思います。この主人公に共感することが困難だったのは、この主人公に「心の躍動性」が失われていたからです。「心の躍動性」が失われていたということは、この主人公があまりに機械的であるという印象を与えるのです。主人公からは生命感情が感じられないのです。そのために、読んでいて共感しにくかったのです。

 また、「うつ病」と診断された人が愚痴や悪口を言えるようになると、かなり回復するということもどこかで述べたかと思います。「うつ病」と診断されるような人は、まずこうした愚痴や悪口を言わないものです。「そういうことを言っても何にもならない」とそのような人は語ることが多いのです。

確かに、何も変わらないかもしれません。但し、それは外側の世界においてということです。私が思うには、愚痴や悪口を言うことで、その人が自分の心に触れているのです。愚痴や悪口そのものが望ましいのではなく、自分の心に触れてみるということが大事なのであり、愚痴や悪口というのは、比較的そういうことが生じやすい領域ではないかということなのです。従って、愚痴や悪口というのは単なる入口に過ぎません(注3)。

 

(101―5)内面に触れること

 愚痴を少しずつこぼすようになったある「うつ病」男性は、愚痴をこぼしていくうちに活き活きした感じを呈してきました。彼は、自分の心に触れて、自分の心がまだそのような感情を抱けるだけの生命を保っているということを実感されたのかもしれません。

 また、愚痴や悪口でなくても、カウンセリングにおける話し合いの途上で、自分の内面に触れていくことのできる人は、やはり回復していくのです。

難しいのは、そういうことが困難になっている「うつ病」クライアントです。彼らの話は、極端に言えば、自分の外側の話で満ちているのです。あたかもニュースキャスターがニュースを読むように、自分自身を語るのです。そのような人からすれば、内面に目を向けてみるということがどうしても難しいのです(注4)。

 異論はあるでしょう。例えば、「うつ病」の人が「死にたい」とか「悲しい」とかを訴える時、その人たちは自分の内面の何かに触れているのではないかと疑問を呈される方もおられるでしょう。

私の個人的な見解では、それは一部においては正しいということです。「うつ病」の人が「悲しい」と口にする時、健康な人が体験するのと同じようには悲しんでいないということを以前に述べました。「悲しい」という感情が本当に体験されているのかどうかも定かでない場合もあるのです。従って、これは内面に生じている何かを表現しているとは考えられるのですが、必ずしも内面の感情を語っているものとは思われないのです。

 このことは言い換えると次のことを表します。「うつ病」と診断された人が、本当に悲しいという感情を体験しているのであれば、その人は既に回復の過程に入っているのだということです。その人の心が回復しているからこそ、その人は悲しいという感情を体験できているということになるからであります。

 

(101―6)本項の要約

 本項で述べたことを要約しておきましょう。

 私の前提として、心は本来的に躍動感に満ちており、生命感情にあふれているものであると仮定しています。幼児や児童はこの躍動感や生命感情をそのまま生きていると仮定しています。この躍動感は、その人の自己や世界を広げ、その人の中に何かを生じさせるものです。

 「うつ病」とは、その人の心から、人間の心が本来有しているはずの躍動感が失われた状態であると見做しました。従って、この本来有しているものが再び躍動することが「治療」の目標とならなければいけないということです。

 心の本来的な躍動性を回復するためには、その人が自分の心に目を向け、関心を寄せ、感じ取って行かなければならないと私は仮定しております。なぜ、そうすることによって、心の躍動性が回復するのかという点は、別項において取り上げる予定をしています。そして愚痴や悪口がその過程の入り口であっても構わないということも述べましたし、「うつ病」の人が本当に「悲しみ」を体験しているのであれば、それは回復の兆しであるということを述べてきました。

 

(101―7)注と補足

(注1)このことは実際に「うつ病」と診断された方に尋ねてみると、その通りだとお答えになられることが多いのです。例えば「かつて、あなたはもっと活動的で活き活きしていたのに、今はそれがまったく失われてしまったように感じておられるのですね。そして、そのようなかつての自分に戻ることができないように今は思うのですね」と伝えたりすると、たいへん納得されるのです。私の経験では、これは認知の歪みや非論理的思考を取り上げている時よりも、はるかにクライアントが納得される事柄なのです。

 

(注2) 「うつ病」と診断された人の多くが自分自身よりも他者や周囲を優先していたことが分かるのです。そういうエピソードを語られるのです。その意味で、「うつ病」と診断された人はあまりに「他者志向」の生き方をしてこられたのです。

 

(注3)愚痴や悪口というのは、感情に触れやすいのですが、同時に、それをすることで「うつ病」の人の自罰傾向を緩和するという意味合いもあります。

 

(注4)三十数年の人生をわずか三分程度で話された「うつ病」女性は、このような語りの一つの典型です。彼女はあたかも履歴書を読み上げるようにしか、自身の人生を語ることができなかったのです。内面的な事柄は一切語ることができないのでした。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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