<テーマ95>録音(3)
クリスチャン(5歳)は、母親から離れることができず、頻繁にパニック状態に陥るということで、母親に連れられて分析家を訪れた。
分析家は初めに母親を面接室に招き入れる。その時、母親はクリスチャンに「ママがあのおばさんと話している間、一人で待っているんですよ。怖がることはないのよ、坊や。怖い人なんか来ませんからね」と言った。
それまで静かにしていたクリスチャンが急に泣き出した。母親との面接が済むと、今度はクリスチャンが招き入れられた。その時にはクリスチャンはおとなしくなっていた。
クリスチャンが面接室に入ろうとして立ち上がると、母親は「さあ、行っておいで。誰も注射なんかしないからね」と言った。クリスチャンは再び急に泣き出した。(モード・マノーニ著『子どもの精神分析』人文書院より p105~106)
ハリー・スタック・サリヴァンは私が尊敬する精神科医の一人ですが、そのサリヴァンが「関与しながらの観察」ということを述べています。サリヴァンという人は絶妙な言い回しをするなと、私はいつも感心するのでありますが、臨床家はクライアントに「関与」しながら、同時に臨床家自身を、並びに双方の間で生じていることを「観察」するものだということであります。
私はそれほど器用な人間ではないのか、この「関与しながらの観察」ということがどうしても十分にできないのであります。多くの場合、「関与」の方に熱中してしまい、「観察」の方が疎かになってしまっていることに気づくのであります。尚悪いことに、面接中にそれに気づいてしまうのであります。後でテープを聴きなおすということは、遅れながら「観察」の方をしているわけであります。テープ録音することは、私の「観察自我」を育てるためにも是非必要なのであります。
テープ録音は、前項のように、クライアントの利益のために用いられることもありますが、それ以上に、私自身の利益のためにも用いるということであります。
私が特に観察したいのは、私の「無意識的な敵意」であります。本項の冒頭にマノーニの事例を掲げましたが、この母親は、意識的には子供を安心させようとしているのですが、無意識的には子供を不安に陥れてしまっているのであります。子供に対するこの「敵意」に母親は気づいていないのであります。この「敵意」が無意識的であるだけに、厄介なのであります。
「無意識的な敵意」に関しての素晴らしい見本は、ドストエフスキー「罪と罰」に出てくる母親の手紙であります(第1篇3章)。主人公のラスコーリニコフが高利貸しの殺害に向かう前に、彼は母親から手紙を受け取るのです。その手紙は、彼の妹が結婚をすること、その結婚は不本意で屈辱的な、強いられたものであることが述べられます。そして、ラスコーリニコフには妹の結婚を祝福するように求められ、一方で、こんなことになったのはお前のせいだということが随所に仄めかされているのであります。この後のラスコーリニコフの落ち着かなさ、不安な感じは、マノーニの事例の子供が体験しているものと同じようなものではないかと思います。私が初めて「罪と罰」を読んだとき、このチクチクと突き刺すような母親の手紙に不快感を覚えたのを記憶しております。最初は「なんとイヤミな手紙やな」と思った程度でしたが、後でそれは母親が無意識的に「敵意」を発散しているからだと思い至ったのであります。
ちなみに、R・D・レインがこの手紙を分析していますので、興味をお持ちの方はレインの「自己と他者」(みすず書房)をお読みください。私など足元にも及ばない、見事な分析をされております。
クライアントに対して怒りを覚えることもあります。怒るべきではないといって、その怒りを「なかったことにしよう」とするよりは、怒りを覚えている自分を自覚するようにしています。この怒りは私にとっては意識化されている怒りであります。ところが、無意識的な怒りや敵意というものが、非常に厄介なのであります。これはその時には気づいていないということが多いのであります。私は思うのですが、どれだけ熟練した臨床家であっても、こうした無意識的な怒りから完全には自由にはなれないものではないかと思います。どの人にも、無意識の内に生じている何らかのものがあるはずであります。
ある女性クライアントとの間にそれが生じたことがあります。彼女が来室した時には、私はかなり意識的に温かく、快く迎え入れようとしていました。しかし、毎回、彼女が帰ってから、私の中で不快な感情が湧き起こってくるのでした。そして、前回の不快感情を反省して、今回もできるだけ温かく迎え入れようとしていたのであります。こういうことを私は繰り返していたのでした。そして、ある時、彼女は私の言葉に怒って帰られました。彼女は立腹して帰られたのに、私は彼女を止めようという気持ちにはなれませんでした。そして、彼女が去っていった後、私は何か気持ちが楽になったのを感じたのでした。後から気付いたのであります。私は、彼女に対しての怒りを無意識的に抱いていたのでした。
初めて受けに来た時、彼女は自分がいかに哀れで不幸であるかを語るのでした。そして、極貧生活をしていて、面接料も十分には払えないと訴えるのであります。当時の私は、私を頼ってきた人を追い返したくないという気持ちが強かった(今では、私のこの気持ちが間違ったものであるということを認識しております)ので、彼女が支払える範囲での金額でカウンセリングをしていくことにしました。正直に申せば、彼女のカウンセリングをやればやるほど、私は自腹を切らなくてはならないのであり、こんなバカげたことはないのであります。ただし、私の方も、料金を下げる代わりに、いくつかの条件を彼女に約束させたのであります。
ところが、後々、彼女はこの約束を平気で破るようになるのであります。それで何一つ悪いことをしているという認識をされないのであります。むしろ、そうする権利(条件を破る権利)が当然自分にはあるのだという態度を示されるわけであります。私はまずそのことが腹立たしく思えてきたのであります。そして、こういうクライアントを引き受けた私自身が腹立たしかったのであります。最初のうちは、引き受けた私がバカだったと思って、彼女への敵意は自分の中で処理していこうと思っていました。しかし、この敵意は私の中で蓄積していって、そして最後の時に、私が無意識的に発した言葉で彼女は怒ったのであります。しかし、その後で生じた結果こそ、実は私が本心から望んでいたことであったと気づいたのであります。
私も人間であるので、怒りや敵意の感情はありますし、それを素直に感じ取ろうとしています。それが意識化されている間は、恐らく私はそれを処理していくことに苦を感じないでしょう。しかし、意識していない所で、それが顔を出したりするのが怖いのであります。
この女性に対しては、私は初回のテープを聴きなおした上で、継続の件を持ち出すべきでした。なぜなら、この初回面接の中で、私の敵意が既に垣間見られていたからであります。このテープに録音されていたある種の私の言葉、例えば「カウンセリングをやっていって、あなたが良くなるという保証はありません」とか「あなたが望むような状態になっていくには、数多くの困難を経験されることでしょう。あなたにはそれが耐えられますか」とかいった言葉は、その時には慎重にかつ現実的な言葉として彼女に与えたつもりだったのですが、聴きなおしてみて、改めて彼女に対しての敵意の表明であったということに、私は気づいたのであります。
テープ録音をするということは、私が面接において、自分でも気づいていない何かを発してしまっていないかを後で確認したいからであります。本項では、自分で気づいていない敵意や怒りを取り上げましたが、その逆のものもあります。無意識的な好意にも気づいていかなければならないのであります。自分で気づかない事柄に気づくために、私は面接を録音することにしております。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)