<テーマ67> 満足すると努力しない? 

 

 あるクライアントとの面接で、そのクライアントは「自分に満足してしまうと、努力しなくなるのではないかと思う」と述べられて、私は「おやっ」と思いました。どういう文脈で彼がこの言葉を発したのか、彼がどういう意味で述べられたのかというようなことは、ここでは脇に置いておくことにして、この言葉の内容そのものについて考えてみたいと思います。

 彼の言っていることからすると、自分に満足するとその人は如何なる努力もしないということであります。今の自分の上に胡坐をかいて、それ以上前に進もうとしないということであります。言葉を返して言えば、自分に不満があるから人は努力できるのだということになるかと思います。それはつまり、人が努力する原動力は自分に対しての不満であるということになるのではないかと思います。果たして、それは本当でしょうか。

 

 このことを考えるにあたって、まず、私の結論は至って単純なものであります。それは、自分に満足しているか不満であるかということは、その人が努力するしないに関係がないということであります。

 それを明確にするためには、あることに対して努力しない人のことを考えてみればいいのであります。例えば単位を取るために勉強しなければならないとする。その単位で「優」を取ろうと考える人は頑張って勉強するでしょう。しかし、単位が取れさえすればいいとか、取れなくても構わないと考えている人は、きっと努力しないし、勉強もしないでしょう。これは要するに「諦めている」ということになるのではないでしょうか。「優」を取ることを諦め、その単位を取ること自体を諦めているということになるのではないでしょうか。「自分はこの程度だ」とか「こんなものでいいだろう」とか言う場合、その人はすでに何かを諦めており、見切りをつけているのだと思います。従って、努力するかしないかは、その人が諦めているかどうかの違いによって決まるのだろうと思います。

 このように述べると、「諦める」ことは良くないとか、「見切りをつける」ようなことはしない方が良いのだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、人間はもっと柔軟であってもよいはずであります。従って、時には「諦める」ことや「見切りをつける」ということもしなければならない場合もあるのであります。そうしなければ、次に進めないとか、新しいことに着手できないということも生じるからであります。つまり、時と場合によっては「諦め」たり「見切りをつける」ことをしないと、その人の世界が広がらないということであります。

 

 さて、人間というものは厳密に二分することはできないということを最初に申し上げたうえで、敢えてここでは単純化して人間を「自分に満足している人」と「自分に不満な人」というように二分して考えることにします。その方が明快だからそうするのであって、あくまでも便宜上のために分けているのであります。

 私の考えでは、「自分に満足している人」も「自分に不満な人」も同じように努力するのであります。「自分に諦めている人」が努力しないのであるということは上に述べました。ただ、「満足している人」と「不満な人」とでは、同じ努力と言っても、努力の質が異なるだろうと私は考えております。

 「自分に不満な人」の場合、それは今の現実の自分を否定することからその努力が始まっているわけであります。その努力は自分を否定するためであると言ってもいいかもしれません。自己否定のためにする努力は常に強迫的な傾向を帯びるものだと私は考えております。従って、より完全主義的に努力するのではないかと思います。

 「自分に満足している人」のする努力は、自分をより伸ばすこと、自分の世界を広げるための努力であり、そういうことがその努力の動機付けになっているのだろうと、私は信じております。従って、向上すること自体が目的であり、その向上はその人にとって喜びとなるはずであります。そうなると、その人にとって、努力することは愉しみにもなってくるかと思います。従って、「自分に満足している人」の努力は、当人にとって「努力」という感覚ではなくなっているだろうと思います。少なくとも、「不満な人」の努力のような、苦行をしているようなイメージはまったくないだろうと思います。

 なぜ、そのようなことが言えるのかということですが、まず、「自分に満足している」という「満足」を、私は「自己受容している」と言う意味で捉えています。そのような人は自分の何が弱いかということを自己非難せずに見ることができるでしょう。何をどれくらい伸ばすべきなのかということも、その人はより明確に見えるでしょう。さらに、その人はより現実的に努力するでしょう。「自分に不満な人」の努力と比較しても、その人自身や周囲の人をより傷つけることなく努力するでしょう。自分自身を受容しているからこそ、その人は自分が取りくむべきところに素直に取り組めるのではないでしょうか。それは「自分はダメだ」と言って自己非難することに余計なエネルギーを費やさないからであります。

 「満足している人」と「不満な人」の努力において、その大きな違いは「向上心」だと私は思います。曖昧な言い方かもしれませんが、それがその努力を動機づけているものの違いであります。それを一言で言えば、「向上心」という言葉でしか言い表せないのであります。

 

 そのクライアントがおっしゃったように、「自分に満足している人は努力しない」と考えるなら、それは「自分に満足している人」は「今の自分で十分事足りているからだ」という観点を有していることになるかと思います。この観点に立てば、「満足している人」はそれ以上努力して何かを獲得する必要はないのだということになります。しかし、それはその人の「向上心」がもはや凍結してしまっていることの結果なのであって、満足感がそうさせているのではないのであります。そのような人が敢えて努力するということになれば、それはその人の「向上心」がそうさせているのだと考えてよさそうに思うのであります。この「向上心」とは、言葉を換えて言えば、「自分をもっと良くしたい」ということであります。

 じゃあ、結局のところ、「向上心」というのは、「自己実現」とか「自己成長」の欲求のことじゃないかと言われれば、その通りなのであります。私は「向上心」という言葉を用いているだけでありますが、その指し示している事柄は類似しているのであります。

 

 少しここまでのことを要約しておきましょう。

 「自分に満足している人」の努力は、「向上心」に基づいた努力であり、自分自身を伸ばし、世界を広げ、向上すること自体が喜びをもたらすということであります。このような努力は苦行にはならないということであります。

 「自分に不満な人」の努力は、自己否定に基づいた努力であります。自責にエネルギーを費やしているので、努力は常に不完全であり、不完全な努力しかできないが故に、完全主義的に遂行しようとしてしまうのであります。自分自身を向上させることや世界が広がることは二次的にしか意義を有していないのであります。その人にとって一次的に重要なことは、今の自分を否定することにあるからであります。当然、その努力は苦行のような様相を呈してくるのであります。

 本当に努力しない人は、「自分を諦めている人」「自分に見切りをつけている人」であります。「諦め」や「見切りをつける」ことは次の段階や新しい事柄に取り組むために必要な場合もあります。ですが、このような「自分を諦めている」タイプの人からは、もはや自分自身と接触せず、世界にも触れず、世界の中で無関心で無気力に佇んでいる人の姿を私は見る思いがします。

 

 余談ながら、もう一度最初に戻って、このクライアントの言葉に注目してみましょう。彼は「自分に満足してしまうと努力しない」と言いました。あたかも「だから自分は満足しないようにしているのだ」と語っているかのようであります。従って、彼が実際にはどれだけ自分に不満があるかということが分かるのであります。その不満に対して、「そうでなければ努力できない」と合理化していることが見えてくるのであります。だから、彼のこれまでの努力は何一つとして成果をもたらさなかったのであります。

 そして、彼がそのように言うのは、純粋な「向上心」に基づいて努力した経験が彼にはないからであります。私はそのように理解しております。純粋な「向上心」に基づいてなされた努力は、それ自体が悦びと満足、充実感をその人にもたらすのであり、一度でもそのような経験をされた人であれば、「自分に満足すると努力しない」という命題が極めて不当だということが理解できるのではないかと思います。つまり、「自分に満足すると努力しない」というその言葉そのものが、あるいはその考え方そのものが、とても「神経症」的な色彩に彩られているのであります。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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