<テーマ87> 自己の「語りなおし」としてのカウンセリング
カウンセリングで行われる作業というのは、クライアントが自己を「語りなおす」ことだと私は捉えております。
自己を「語る」ではなく「語りなおし」というように、わざわざ「なおす」という言葉を付け加えている点に注目していただきたいのであります。なぜ、このように付加するのかといいますと、私たちは日常生活において、様々な場面で何らかの形であれ、自己を語るという作業をしているものであります。人間というものは自己を表現せずにはいられない存在だと私は思います。コミュニケーションの観点から言えば、人間は周囲に対してメッセージを常に発し続けているのであります。それをまったくせずに存在するということは、人間にとっては不可能なことだと私は思います。
意識していようとしていまいと、私たちは常に自分自身の何かを周囲に語っているわけであります。それを敢えてする場を私は提供していることになるわけであります。この場において、改めて、クライアントは意識的に自己を語らなければならないという意味もあって、「語りなおし」という表現を用いているのであります。
カウンセリングにおいては、クライアントは主に言葉を通して自分自身を語るのであります。私はそれを聴くのであります。クライアントは自分の話を聴いてもらうと同時に、自分自身もそれを聴く、もしくはそれを語っている自分に気づくのであります。また、私からも、例えば「あなたのおっしゃることはこれこれこういうことでしょうか」とか「あなたが言いたいことはこういうことではないですか」といった応答を通して、クライアントは自己の語りをやはり「聴きなおす」のであります。つまり、クライアントが「語りなおし」た事柄は、一旦は臨床家によって受け止められ、投げ返されたりすることによってクライアント自身に「聴きなおし」され、再びクライアントに還っていくのであります。
語りなおされた事柄は、そのようにしてクライアント自身に聴きなおされ、吸収されていき、その語った事柄はクライアント自身のものになっていくのであります。その過程において、語られた体験はよりクライアント自身のものになっていき、そのことがクライアントがより確かな自己を確立することにつながるのであります(もちろん、これはもっと複雑な過程を経るものであります)。このような形でしか、私たちは自己を確立することはできないものだと私は捉えております。
語られたことがクライアントに吸収されていくということは、クライアントは彼にとって真実であるところのものを語らなければならないということを意味します。偽りの語りは再び偽りの自己を強めることになるでしょうからであります。
そして語られたことは、臨床家と共有されなければならないものであります。この他者との共有という点が、たとえばプライベートな日記などとは大きく異なる所であります。この共有という点は稿を改めて述べるつもりであります。
しかし、こうした作業は「未成熟な自我」には耐えられないことであります。語りなおしていくという作業は、時に、自分にとって不都合な部分に目を向けなくてはならなくなるからであります。これをすることは、「自我が未成熟」な人ほど困難となります。それに耐えられるだけの強さが欠けているからであります。自分とは無関係な、自分の外側のことを語る方がはるかに安全なのであります。子供の会話とはこのようなものであります。また、大人であっても、私たちは日常会話でどれだけこの手の会話(自分とは無関係な事柄に関しての会話)に時間を割いていることでしょうか。
自分にとって不都合なことに目を向けることは確かに苦しいことであります。しかし、ここに臨床家の存在価値があると、私は思うのであります。クライアントの不都合な事柄を、臨床家と一緒に見ていくのであります。恐らく、大部分のクライアントにはそれを一緒に見ていくといった人、その作業につき合ってくれるといった人が、彼の人生において、いないものであります。そのため、彼は自分の不都合な部分に目を向ける機会を得られず、その部分は彼にとって秘密となり、自分にとって「あってはならないこと」といった色彩を帯びることになるのであります。結果的に、それは自分にとって「異質」な何かとなり、自分の中から排除しなければならない事柄となって、その人の心の中に存在し続けることになるのであります。
もしそれを語ることができるなら、その人はその事柄がもたらす苦しみから解放され始めているというとこであります。そして、それが共有されるのであれば、それは彼にとってもはや秘密ではなくなっていくものであります。この過程を経ていくうちに、彼は彼を苦しめていた「秘密」から解放されていくのであります。彼が「秘密」から解放されていくほど、彼はより自分が自由になっていくのを感じるものであります。私はそのように捉えているのであります。
ところで、自分が上手に話せるかどうかということをとても気にするクライアントもたくさんおられます。大部分のクライアントがそうであると言っても過言ではありません。その人が培ってきた言語表現能力には、当然のことながら個人差があります。そのような個人差があるということを押さえた上で申し上げますと、クライアントのほとんどは「語り下手」なのであります。
クライアントが「語り下手」なのは、私には二つの傾向によるものだと思います。一つは完全に分かってもらおうとし過ぎるという傾向であります。私にもその傾向があります。そのことは、そのような人がこれまでどれだけの誤解に晒されてきたかということを示唆するものであります。もう一つの傾向は、会話量が少なかったということであります。この会話量というのは、大抵は彼の家族内においてのことであります。会話がほとんどない家庭で育ったり、あるいは自然な会話が行われなかったり、彼にだけ発言権がないかのような会話スタイルを有する家庭で育ったりとした背景があるものだと思います。そのような人は、自分に発言権が与えられると狼狽するものだと思います。自由に話してくださいと言われて、その「自由」ということに苦しめられてしまう人だと思います。
しかしながら、私が特に大事だと考えている点は、そういう所にはありません。クライアントが上手に話せるかどうかということは、私にとっては二の次の話であります。肝心なのは、「語りなおし」の過程において、クライアントに動きが生じるかどうかということなのであります。
私たちが何かを話しているとします。話している最中に、その時の記憶や感情が蘇ってきたりします。あるいは、何か思いついたり、連想が働いたり、発想とかインスピレーションが湧き起こったりします。こうしたことは、話しているうちに、心が動き始めたことの証拠であると私は捉えております。「語りなおし」の作業において、このようなクライアントの中で生じてくるものが肝心なのであります。これが生じない限り、クライアントはなかなか前に進めないものであります。そもそも、成長とか変容とかいうことの第一歩は、何かが動き始めることだからであります。
あるクライアントは、自分が何を話すかについて綿密な原稿を書いてこられました。その人はただそれを読んで私に聞かせるだけであります。私は、少なくとも、そのクライアントに関しては、そのままにしておきました。その人は、自分が動かされることを非常に恐れていたように思えたからであります。他者からの影響を非常に恐れているといったタイプの人だったわけであります。だから、私は彼が原稿を読むのを妨げはしなかったのであります。しかし、このカウンセリングでは、お互いの間に動くものや、共鳴し合うものは生じなかったのであります。私は彼が原稿を必要としなくなるまで待たなければなりませんでした。徐々に彼は原稿に頼らなくなっていったのでしたが、彼が原稿に頼らなくなるに従って、彼は自分の心の動きに身を任せることができるようになっていきました。つまり、より自然なやりとりがお互いの間で生じてきたのであります。自然なやりとりが増えていくほど、彼の内面で動きが生じていったのでした。
本項の内容を簡単にまとめておきましょう。
カウンセリングにおいて、クライアントは自分自身を意図的に「語りなおす」のであります。「語りなおされた」事柄は、臨床家によって共有され、同時にクライアントは「聞きなおし」作業をもするということであります。クライアントの「語りなおし」はクライアント自身に吸収されるような形となり、それがより自己を確かなものにしていくということであります。
問題となるのは、クライアントが見たくない、語りたくないと思っている部分であって、それをクライアントは臨床家の手助けを得ながら、臨床家と一緒に見ていくことになるのであります。もし、そのような作業がうまくできるなら、その体験はもはやクライアントを苦しめなくなるということであります。
また、肝心な点は、「語りなおし」ていく中で、クライアントの内面で動きが生じるということであります。上手く話せるかどうかということは、ここでは問題にならないのであります。クライアントに動きが生じるということが、最初の一歩であると私は考えております。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)