<テーマ81> 「抑うつ前駆症状」(2)
本項より、五つの「抑うつ前駆症状」について、その一つ一つを見ていくことにします。その際に、まずウェイナーがどのように述べているかということを引用し、その上で私なりの見解を付加したり、事例を掲げて説明するという形を取ることにします。
最初は「退屈と落ち着きのなさ」ということであります。ウェイナーは次のように書いています。
『青年における退屈と落ち着きのなさは、しばしば潜在性うつ病を反映している。まったく関心を失ったり、活動や物事に没頭するのを反復する者、思いのまま熱中しすぐに興味を失い、自分をとりこにする何か新しいものを必死に求める者、耐えられない退屈からの単なる逃避として恒常的活動性を熱望する者、孤独に耐えられない者など、これらの若者は、より年長の者では症候学的には伝統的なうつ病を形成するような、根底にある虚無感と孤立感に対して防衛しているよい実例なのである』
ウェイナーの記述を読まれて、どのような人の姿を思い浮かべられたでしょうか。「うつ病」というイメージからは若干かけ離れた人の姿を思い浮かべた方も少なくないのではないかと私は思います。
ある意味で、この落ち着きのなさということは、過活動の様相を呈するのであります。しばしば、この状態を「操状態」などと表現されることもあるのですが、「落ち着きのなさ」と述べる方がより適切な表現であるように私は思います。
この活動性はある種の強迫性を帯びているということが窺われます。しかし「強迫性障害」と決定的に異なる所は、その根底にあって、その人の行動を支配している感情にあります。通常、「強迫性障害」の行動は不安に彩られており、当人は強い不安に支配されており、尚且つその強い不安を認識しているのであります。しかし、「抑うつ前駆症状」の強迫的な行為は、ウェイナーが述べているように、その根底に虚無感や孤立感があるわけであります。その虚無感や孤立感への対処として、そのような活動性が現れているということになります。「強迫性障害」で見られるような強い不安は、まったく存在しないとは言えないかもしれませんが、あまり当人自身からは報告されないものであります。「抑うつ前駆症状」の活動性は、これも適切な言葉だと私は思いますが、その「退屈」感に支配されているのであります。
この「落ち着きのなさ」による活動性は、しばしば周囲の人によって正確に把握されないことが多いように私は思います。ウェイナーの記述にあるようなことを誰かがしていても、それが「うつ病」であるとは疑われないのであります。せいぜい「あの人は飽きっぽい人だな」とか「新しい物好きなのだな」とか、あるいは「三日坊主だ」といったように見做されてしまうことも多いのではないかと私は思います。外観からだけではよく分からないことであります。その人を行動に駆り立てているものに目を向けなければならないということになるのですが、それはどうしても当人にしか分からないという面があるのも確かであります。
三十代の男性が「うつ病」と診断されて、私のカウンセリングを受けに来られました。その人は今では「平凡」(あまり適切な言葉ではありませんが)な会社員でした。彼は大学生の頃は公務員になりたかったのだと語りました。私は「なぜ公務員に憧れたの」と尋ねますと、彼は「毎日書類にハンコを押すだけをしていたい」と答えたのでした。お断りしておきますが、これは彼の中での「公務員イメージ」であります。これはウェイナーの述べる「恒常的活動性を熱望する者」に該当するかと思います。彼は、三十代になって「うつ病」と診断されたのでありますが、すでに大学生の頃から「抑うつ前駆症状」を抱えていたのだろうと推測できるのであります。その頃から、彼は活動と自己の世界を広げていくことに関して、あまりに抑制的だったのではないかと私は思うのであります。
「抑うつ期」に陥る直前に、「活動期」が見られるという人も少なくありません。
その女性クライアントは、一時期のような「抑うつ」から解放されてきていました。彼女はいろんなことを始めたいと考えるようになりました。それはそれで望ましいことではありました。しかし、彼女は一時にいくつもの活動を始めてしまい、再び「抑うつ期」へと陥ってしまったのでした。私は「やりたいことがいくつもあるのは分かるけれど、一つずつやるようにしましょう」と提案していたのですが、恐らく彼女の焦り、遅れを取り戻そうとする焦りがあったのでしょうけれど、一度にたくさんのことに着手して、収拾がつかなくなってしまったのでした。
これに関しては、私は自分の認識が甘かったのだと思っています。彼女の活動性は、「うつ病」から本当に回復したことによってもたらされたものではなく、それは「うつ病」から「抑うつ前駆症状」の段階まで回復したにすぎなかったことを示しているものと現在では認識しております。確かに回復に違いはなかったのですが、それは部分的な回復であったわけであります。
退屈や虚無感に襲われた時に、私たちがもっとも頻繁に用いる対処法は、外部に刺激を求めるということであります。中でも「暴力」はもっとも強烈に刺激をもたらしてくれるものであります。
ある抑うつ状態に陥った男性は、家に閉じこもってゲームばかりしていると話しました。そして、今とてもハマっているゲームがあると言います。私はそれがどんなゲームなのかを彼に尋ねました。ゲーム業界でこの種のゲームを何と呼ぶのか私は詳しいことを知らないのですが、要は「バトルもの」のゲームだったのであります。それもかなり生々しいもののようでありました。
この男性が「うつ病」であるかどうかには疑問があったのですが、彼のこの行動には根底に退屈感と孤立感があるのだろうと感じました。
抑うつ状態に陥っている人が、自分の状態を述べる際に、「なんか、こう、無気力なんです」というようにおっしゃられたことがありました。この「無気力」という言葉に私はいつも引っかかるのであります。「最近、落ち込んでいて」とか「憂うつなんです」と言うのではなく、「無気力なんです」とその人は述べられるのであります。その人にとって「無気力」という言葉が自分の体験している事柄を表現するのにもっとも適しているからそのように述べられたのだと思います。そして、それは「落ち込む」とか「憂うつ」とかいった言葉で表現される体験とは、あきらかに異なった体験をしているのだと思います。この人の言う「無気力」とは、「退屈」感のことではなかったかと私は思うのであります。
実際、退屈感、虚無感、倦怠感という体験は、「うつ」と表現されることよりも、しばしば「無気力」という言葉として表現されることが多いという印象を私は抱いております。「うつ病」と診断された人が「気力が湧かないんです」と言うのとは、少し「気力」のニュアンスが違うように私には思われるのであります。恐らく、退屈感や虚無感を言い換えるとするなら、「無気力」という言葉がもっともそれに近いのだと思います。
無気力感、虚無感から自分を守るための活動でありますので、こうした活動はその人に真の喜びをもたらさないだろうと思います。もたらしたとしても、それは一時的なものであり、活動そのものの喜びというよりも、虚無感に覆いがかけられたことの安心といったニュアンスを帯びることになるかと思います。また、一つ一つの活動は、何一つ達成されることなく終わるのであります。当人にはそれで構わないのであります。それは達成されることを目的としてなされる活動ではないからであります。ただ、この空虚感を埋め合わせるためのものであるにすぎないからであります。
このような活動性の在り方は、「自閉的活動性」として概念化されていることであります。もしくは「躁的防衛」として捉えることができる活動であります。機会があればそれらをテーマに取り上げるつもりでおりますので、詳細はそちらに譲ることにします。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)