<テーマ70> 失錯行為(2)~失錯の利用
(70―1)人は失錯行為をしてしまう
(70―2)私自身の例~クライアントを間違えて
(70―3)利用の注意点
(70―4)自己反省の材料
(70―1)人は失錯行為をしてしまう
失錯行為について続けていくことにします。前項では、私自身のものも含めて四つの例を挙げました。
四つとも失錯行為が不快な感情や強烈な感情と結びついているということが理解できることを確認しました。そして心の中では、不快な感情と理性とが衝突している場面、葛藤の存在が確認できるということも理解しました。
本項ではこのような例をもう少し続けたいと思います。
その前に、私は人間はどうしても失錯行為をしてしまうものであり、それは避けられないことであるという前提に立っています。
私たちは誰もが環境や状況の中で生きています。そしてさまざまな感情を同時に体験することもあります。人間がそのように生きている以上、私たちはどうしても失錯するのです。
従って、失錯行為とはとても人間的な営みとも言えるのです。私たちは人間であるが故に失錯行為を避けることはできないのです。
私は他人の失錯行為を目にすると「ニンマリ」してしまう悪い癖があるのですが、一言だけ弁解させていただくと、それは決して悪い感情からそうしているのではないということです。その人が失錯するのを見ると、その人がとても人間らしく見えてくるので、私は嬉しくなるのです。それが「ニンマリ」なのです。
さて、人間は失錯行為を避けられないのであるとすれば、失錯しないようにしようと努めることはできても、絶対に失錯しないようにしようは不可能だということになります。完全に失錯しない人間は一人もなく、そのような目標は人間離れしているのです。
問題は失錯行為をしないということではなく、それを自己理解の糸口にすることであると捉えています。もちろん、他者の失錯行為を通して、他者理解につなげることもできるのですが、他者の行為の場合、それはあくまでも自分の推測であるという前提を忘れないように心掛ける必要があるでしょう。
また、失錯行為をしてしまったら、それを真剣に取り上げてみて、有益な理解を得るということも大切かと思います。つまり、失錯行為の利用ということであります。そのような例を挙げてみたいと思います。
(70―2)私自身の例~クライアントを間違えて
私は予約表に目を通して、今日誰が何時に来ることになっているのかを確認しました。これは毎朝私がしていることであります。その日、Aさんが朝に来て、午後からBさんが来るなということを覚えていました。私はまずAさんが来るものとばかり信じていました。しかし、現れたのはBさんでした。私はびっくりしてしまいました。予約表を見ると、確かにBさんが朝に来ることになっていて、Aさんは午後からでした。私は間違って覚えてしまっていたのです。
私にとって問題だったのは、なぜAさんとBさんだったのかということでした。もちろんこの二人には現実的な関係は何もありません。でも、同じ日のCさんやDさんに対してはそのようなことが起きていないので。つまり、それがCさんやDさんではなく、なぜAさんとBさんとの混合が起きてしまったのかということが問題なのです。
詳細を述べようとすれば、各々の事例に踏み込まなければならなくなってしまうので、簡潔に述べることにします。私は改めてAさんとBさんのことを振り返り、この二人を一つとして考えてみようと思いついたのです。結果、Aさんについて得た理解、そしてAさんに対する理解というものは、Bさんを理解する上でとても有益だったのであり、その逆も同様だったのでした。
Aさんを理解することはBさん理解に資するのでした。同じようにBさんを理解することはAさん理解に資したのです。あの失錯行為がなければ、Aさんを理解するためにAさんだけを取り上げていたでしょうし、Bさんと関連づけてみるという発想は得られなかったと思うのです。
失錯行為の利用ということの一つの例として、私自身の失錯を取り上げました。
(70―3)利用の注意点
失錯行為に気づく、その失錯行為の意味を振り返る、そうして得られたものを自分自身のために利用する、そういう流れで捉えていただければけっこうであります。
自分自身の理解のためにそれらは利用されなければなりません。自分自身や他人を非難、攻撃するためにそれを利用することは避けなければならないことであります。そこは注意点として特に強調したいのです。
心理学の理論というものは、容易に他者に対する偏見や攻撃に利用されうるものです。それは理論が間違っているのではなく、その理論を用いるその用い方が間違っているものであると思います。
心理学(その他の学問も同様ですが)の理論は、それがどのような分野の理論であれ、人間を理解するためのものであり、それは人類の福祉に貢献するためのものであるのです。学問上の業績を、私たちは誤って使用してしまわないようにしなければなりません。
歴史的に見て、人類の不幸はそうした学問上の業績の誤った使用によって生じていることも少なくないと私は思うのです。それは失錯行為の理論においても同じことが言えるのです。ある人の失錯行為を見て、あの人はあんなことを考えていると安易に信じ込まず、そしてあんな考えの人はイヤだとか誹謗したり、中傷したり、そういうことをしてしまわないようにしなければならないのです。
もう一つ付け加えたいのですが、学問上の業績を他者の攻撃のために使用するというのは、その背景の一つにスケープゴートの心理が働いていると私は思います。
スケープゴートとは、誰かを罪ある者とみなし、それによって自己の正当性を維持するという人間関係の様式であります。そして罪ある者を排斥することで、自己の罪を自身から排斥するということなのです。
そこに学問上の裏付けが取れていたりすると、このスケープゴートはそれだけ正当化されてしまうことになります。つまり「自分は何も悪いことはしていない。彼らが悪いのだ。だって、学問上そう言われているのだから、これほど確かなことはない。だから彼らを差別しているのではない。私は正しいことをしているのだ」と言えるわけです。
心理学の理論はスケープゴート作りに関与してしまうこともあります。それはその理論が間違っているのではなくて、本当はスケープゴートを必要とする人たちの方が間違っているのです。
(70―4)自己反省の材料
さて、話を戻しましょう。
自分の失錯行為に気づき、それを解釈してみて、何らかの理解が得られたとしたら、その理解は自己を変えるために用いられることが望ましいことだと私は思います。
失錯行為は自己反省の材料にすることもできます。
前項の「文教大学」という言葉を度忘れしてしまった私自身の例では、営業マンに対して「もっと勉強してから来い」という感情を抑えていたのであります。
しかし、後になって、私は彼に対してそこまでの怒りを、それも抑圧しなければならないほどの怒りを感じる必要があったのだろうかと思い至ったのでした。
それに彼の不勉強を私が叱責する権利があるでしょうか。彼は勉強するつもりだったかもしれません。大体において彼はそういうことをしているのかもしれませんし、今回だけ事情があって十分に下調べができなかっただけかもしれません。
彼が勉強しなかったのは、私の口から直接聞いてみたかったからなのかもしれません。もしそうだとすれば、彼は私に対してとても興味を持ってくれていたということになるのかもしれません。
そのように、いろいろな可能性を考えてみると、私がそこまで怒りを感じることが果たして正当なことだったのかどうか、自分でも怪しくなってくるのです。
ここで、別の可能性が考えられるのです。確かに私はその時、怒りを感じていました。その営業マンに対して怒りを感じているように私は捉えていたのでしたが、もしかしたら、その他の部分に対して怒りを感じていたのかもしれないということです。
つまり、私が何かで怒りを感じているとします。そこにたまたま勉強してなかった営業マンがいただけなのかもしれない、本当にそれだけのことだったのかもしれないのです。
そして、この可能性は、私にとってはとてもよく頷けるのです。
その日、私は彼のために時間を割く余裕がなかったのです。従って、この面談そのものが私にとっては都合の悪いものとして捉えられていたのでした。営業マンと気持ちよく対面しようと思えば(別にそのような義務が私にあるわけではないのですが)、私は私自身の時間をもう少し調整することができていなければならないのでした。
つまり、この営業マンに怒りを感じる前に、私の方で余裕を持ってお会いするようにしても良かったのだということを教えられるのです。
こういうこともまた、一つの気づきであり、失錯行為をきっかけにして得られた洞察であるわけです。
そして、本質的な部分が取り上げられず、周辺的な事柄ばかりを質問されて、私がうんざりしていたのですが、それは私自身の抱える問題と無縁のものではないと思います。
もし、私がその部分を取り上げることができていくとしたなら、この失錯行為はそのための一つの入り口を提供してくれていたということになります。そういうこともまた、失錯行為の利用であると思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)