<テーマ55> 臨床家への批判(3)~「クライアントのせいにしている」(続)
(55―5)クライアントには責任転嫁できない部分がある
それが精神科医の診察室であれ、カウンセリングの場面であれ、クライアントが「心の治療」を受けるとなれば、そこでは常にクライアントのことが話題の中心に据えられることになります。それが通常なのです。
私の面接において、私の場合、クライアントが何かを発言した時には、その言葉はクライアントに属している何かの表現であると考えます。そして、その言葉がなぜ生じたのかとか、その言葉は一体何を指し示しているのだろうかということを、私は考えます。
こうした作業は、私がクライアントを理解しようとしているものであり、何かをクライアントのせいにしているという作業ではないのです。この部分の違いは押さえておきたいのです。
もし、私のクライアントが私に向かって「あなたは私の問題をすべて私のせいにしている」と述べられたとすれば、私はそれを否定しないでしょう。そして、まず、次のように考えるかもしれません「このクライアントは自分の問題を自分の問題として受け止めることに困難を覚えているようだ」と。あるいは「自分の問題を自分のせいだと宣言されることに、この人は非常に傷つくのだ」と理解するかもしれません。そして、「そのような責任をすべて自分に還元されてしまっていると体験しているのだから、私のことを非常に敵対視しているだろう」というようにも考えるでしょう。
そして、もし、このクライアントが「自分がこうなったのは私のせいではなくて、暴力を振るった飲んだくれの親父のせいだ」と述べられるとすれば、私はその言葉はそのまま信じようとするでしょう。なるほど、クライアントが今の状態になったのは父親のせいなんだなと納得はするでしょう。
しかし、だからと言って、問題は父親の側にあって、そのクライアントの問題ではないという結論には達しないのです。なぜなら、問題を意識して私の面接を受けに来られたのは、父親ではなく、このクライアントであるからです。
従って、クライアントが自身の問題を抱えて訪れている限り、その元凶が事実父親にあったとしても、面接場面では、その問題を抱えて苦悩しているクライアント自身が中心に据え置かれることになるのです。父親の話ではなく、クライアントの話が常に取り上げられることになるのです。どのような「治療法」であろうと、それは変わらないのです。これは問題をクライアントのせいにしているというようにクライアントには見えているかもしれなくても、それとはまったく違った視点なのです。
しばしば、それはあまりに不公平だと訴えるクライアントもおられます。「父親が悪いのに、なぜ自分がいろんな犠牲や負担を負ってまで、この問題に取り組まなければならないのか」というように感じられたりするのです。
確かに不公平なことです。しかし、今現在において、問題を意識して臨床家を訪れているのは、やはり父親ではなく、そのクライアントであるわけです。その「問題」をどうにかしなければならないと感じているのは、父親ではなく、クライアント自身であります。その問題が切実に体験されているのは、やはりクライアント自身であり、父親ではないのです。
私がカウンセリングを受けていた時、私にとって一人目の臨床家の先生でしたが、ある時、その先生は次のようなことを私に言いました。「寺戸君が今の状態になったのは親にも責任があるのだから、治療費を親に求めてもいいのではないか」と。私は断固として反対したのです。当時、私は一応大学生だったので、アルバイト代をそのままカウンセリング料に充てていたのです。それで私が辛そうに思ったのか、先生はそのように言ったのです。一応、先生の親切心から言ってくれたことなのだろうと捉えています。
なるほど、私の体験したことを聴いていると、臨床家にはそれが私の親のせいであるように見えたかもしれません。私の「病」には親に責任があるかもしれません。でも「病の治療」は私の責任でやりたかったのです。私の場合は、「治療」に親が関わってくる方がもっとイヤな感じがしていました。「治療」に親を引き入れたくなかったのです。だから、私はそこにあまり不公平感を見なかったのです。
それはあくまでも私一個人の体験であり、それを他のクライアントたちに強要することはできません。ただ、「治療」に関わる責任はクライアントもまた引き受けていかなければならないものであるということを述べたいのです。つまり、クライアントには「治療」に関して、引き受けるべき責任がある、責任転嫁できない部分があるということです。それは避けられないことです。そのこともまた、「クライアントのせいにしている」というのとは、まったく異なった話なのです。
(55―6)「裁判官」イメージと関わる
「クライアントのせいにしている」と「書き手」が体験する時、次のような可能性もあり得るだろうと思います。「書き手」はその時、臨床家その人に反応しているのではなく、臨床家が「書き手」にもたらしているイメージに「書き手」が反応しているという可能性です。
この「書き手」にとって、臨床家は「裁判官」のようなイメージがあるのではないかと私は思うのです。誰に責任があるかを判決し、言い渡す裁判官のイメージです。そして、この裁判官に自分が裁かれるというような体験をしているのかもしれません。しかし、この「裁判官」は「書き手」の中で生じている臨床家のイメージであり、現実の臨床家とは必ずしも一致しないかもしれません。
私が「臨床家はクライアントのせいにしている」という書き込みを読んだ時、あたかも有罪判決を受けてしまった人の姿を見る思いがしたことがありました。事実、その「書き手」にはそのような体験、それに近い体験があったのかもしれません。
私は、その「書き手」にとって、本当の「裁判官」は誰であったのかを見ることができれば良かったと思うのです。なぜなら、もし「書き手」が現実の臨床家ではなく、「裁判官」イメージと関わっているのであれば、「書き手」の中にある「裁判官」イメージの原形となった人物が存在すると仮定できるからです。その原型となった現実の人物との間で経験した問題を、この「書き手」は臨床家との面接場面で再現していると言えるのかもしれません。
(55-7)クライアントのせいにしたら、臨床家はクライアントと会う必要がなくなる
また、「書き手」は次のような可能性を見落としてしまっているように私は思いますので、最後にその点だけ述べて本項を終わることにします。
もし、クライアントの問題や言動のすべてが、そのクライアントのせいであると臨床家が認めているのだとすれば、つまり「書き手」の記述通り、「すべてをクライアントのせいにしている」とすれば、臨床家はそのクライアントとは会わないだろうという可能性です。これはけっこう自明なことではないかと私は思います。
臨床家はその人に対して、「あなたに責任があるのだから、あなたが負いなさい」とか「あなたが悪いのだからあなたが反省しなさい」と言えば事足りるのです。それ以上にその人に関わる必要はないのです。
だから、臨床家がクライアントに会い続けている限り、すべてをクライアントのせいにしているということの証明にはならないのです。むしろ、それらがすべてクライアントのせいだということになれば、臨床家はもはやその人を援助しようとも思わないでしょう。
私の浅い経験から言うと、すべてをクライアントのせいにして片づけることができるのなら、これほど楽な作業はないのです。
仮に、「問題」となっている事柄の原因の一部をそのクライアントが担っているとしても、それ以外の部分も見えているから、臨床家はクライアントのせいにして片づけることができないのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)