<テーマ50> ネットの人間関係
(50―1)人はインターネットに関わらざるを得ない
インターネットにだけは関わらないようにしようと私が心に決めていたのは、ほんの五年ほど前まででした。それが今では、こういうホームページをいくつも持ち、そのための原稿を書き、それを自分の手で公開していっているのです。いつの間にやら、インターネットにしっかりと関わらざるを得なくなってしまったのです。
まあ、それも仕方がないことなのかもしれません。インターネットそのものが私たちの生活に欠かせなくなっていて、私がどれだけ拒もうと、どこかで縁ができてしまうものです。今では、すっかり開き直ってしまい、こういうホームページを通して、私もまたインターネットを活用しているのです。
現代の生活において、私たちはインターネットと関わらざるを得ない宿命を負っているのだとすれば、インターネットがどういうものであるのかという知識を獲得することは必修となるでしょう。私なりに学んだことを綴ることにします。
(50―2)ネットの人間関係という矛盾
さて、そのインターネットですが、インターネットは世界中の人とつながることができる、それも瞬時にそれができるという点で素晴らしいと言われているようです。世界中の人とつながることができるということがそれほど素晴らしいとは私は思いませんが、一般的にはそのように考えられているという印象を私は受けております。
インターネットを介して人とつながるということは、そこにネット上の人間関係が生まれるということになったようです。
ちなみに、ネット上の人間関係というのは、私には矛盾のある言葉のように思われるのです。と言うのは、人がインターネットを開いている時、その人は基本的には他者と関わっているわけではないからです。そこには常にその人とパソコンとの関係が存在しているだけのはずなのです。あるいは、他の人の書いた文面と閲覧者との関係があると言ってもいいかもしれません。
私の個人的な考えはひとまず脇に置いておいておくとしまして、インターネットを通じて誰かと交流することを、取りあえずは「ネット上の人間関係」であると捉えておきます。それに対して、インターネットを介さない通常の人間関係を、ここでは「現実の人間関係」という言葉で表すことにします。
(50-3)ネットでつながるという幻想
さて、この「ネット上の人間関係」ということですが、ネットを通して常に誰かとつながることができるということでありますから、このこと自体はとても素晴らしいことのように響くでしょう。しかしながら、それは本当に素晴らしいことなのでしょうか。
「ネットの人間関係」に熱中しているひきこもり傾向のある人たちを私は知っています。彼らはいかにも得意げにこの人間関係を誇示するのです。確かに彼らは数百人もの人とネット上で交流しているかもしれませんが、しかし蓋を開けてみると、ちょっと食事や買い物につき合ってくれるような友人が一人もいなかったりするのです。たくさんの人とネット上でつながっているとしても、一人の友人とさえ出会うことがないということは、実に不幸なことではないかと私は思うのです。
もし、自分にはネット上で数百人の友人がいるにも関わらず、現実に交際できる友人が一人もいないとすれば、ネット上の友人というのは幻想のような存在ではないかと私には思われてくるのです。ちょうど、友達のいない淋しい子供が空想上の友達を作り上げるようなものではないでしょうか。
そのような人たちを見ているうちに、「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」の違いという問題が私に生じてきたのでした。次にその相違を見ていくことにします。
(50―4)情報を介する関係
まず、私の個人的な見解では次のようになるのです。「ネットの人間関係」は、仮にそれが人間関係の在り方の一形態であることを承認したとしても、それは「現実の人間関係」とはまったく別物であるということです。
インターネットは情報を発信したり、受け取ったり、検索したりするにはとても便利です。インターネットはそもそもそういうことを目的として開発されたものだと私は思っています。あくまで情報がメインであるという世界なのです。でも、「現実の人間関係」において、情報ということは関係の一部を占めるに過ぎないものです。情報以外のものが「現実の人間関係」ではもっと重要になってくるのです。
つまり、「ネット上の人間関係」とは情報(文章)のやり取りが中心になってくるのですが、それは「現実の人間関係」においては一部分でしかないということであろ、この意味において、「ネットの人間関係」は「現実の人間関係」よりも狭い範疇しか有しないように私には思われるのです。
(50―5)両者の違いは何か
「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」とが別物であるということは、簡単に証明できることです。もし両者が同じものであるなら、「ネット上の人間関係」が上手に築くことができる人は、「現実の人間関係」においても同じように上手に人間関係を築くことができるはずです。ところが、実際にはそうではない人たちもたくさんおられるのです。ネットの世界では数百人もの友人たちに囲まれていても、現実の彼の周りには一人の友人もいないというような人もおられます。そこには自ずと「ネットの人間関係」にはないものが「現実の人間関係」の方にはあるということを表していないでしょうか。あるいは、「ネットの人間関係」では通用していることが、「現実の人間関係」の方では通用しないということが起きているのではないでしょうか。
それが何であるかということですが、その一つはインターネットではその人本人が現れなくても成り立つというところにあります。
「ネット上」で誰ともつながろうとしない私から見てとてもびっくりしたことですが、ネット上においては、私が「私」でなくても通用するのです。ある男性はネット上では女性として生きていました。本当は成人しているのに、ネット上では未成年で通していたというような人もありました。容姿やプロフィールを偽ってネット上で存在している人もありました。ネットの世界においてはそれが通用するのです。私たちはネット上ではどんな人間として現れても構わないのです。そこでは「私」自身である必要などないのです。
偽りの自分、存在しない人間としての「私」として生きられるということは、私にとってはとても恐ろしいことのように思われるのです。以前の私の知人男性で、女子高校生とネット上で「文通」しているという人がいました。彼はネット上ではよくモテるなどと自慢していましたが、こうした状況を目にすると、果たして相手が本当に女子高校生であるのかどうか怪しいものです。
一方、「現実の人間関係」においては、そうはいかないのです。それが「現実の人間関係」の方に困難を感じている人が悩むところなのです。「現実の人間関係」においては、私は「私自身」から逃れることができず、他者に対して、そのままの自分を顕現させなければならないのです。自分自身を受け入れることができない人にとって、これほど苦痛なことはないでしょう。どれだけ自分が嫌であっても、その「嫌な自分」のまま、相手の前に現れなければならないからです。
簡潔に申し上げれば、「ネットの人間関係」においては現実の自分を引き受けなくてもそれが可能なのです。一方、「現実の人間関係」においては、その人は自分自身から逃れることができないのです。それどころか、「現実の人間関係」においては、その人は現実の自分を嫌というほど見せつけられてしまう事態を体験するのです。このことから言えることは、現実の自分を引き受けているということが、「現実の人間関係」の前提であるということになると私は考えています。
(50―6)時間性の違い
「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」との違いで、私が重要だと思う差異がもう一つあります。それは「時間」に関することです。
「ネットの人間関係」は常に時間差が生じ、また、それで普通なのです。ある人が相手に文章を送信する。相手は翌日にそれを見て、返事を送ってくる。こちらはさらにその翌日に相手からの返信に目を通す。こういうやり取りが可能なわけです。うまく書けない時には、返事を送るのを待って、何度も書き直すことも可能です。最終的に相手に送信するまで、決断を引き伸ばしても差し支えないのです。
一方の「現実の人間関係」は相手と自分とが同時進行でやり取りをすることになります。もちろん、そこでも即答しなければならないとは限りませんし、時間をかけて答えたとしても構わないことではあります。それでも、その時々で何を伝えるのか、どのように伝えるのかということを、その都度、選択し、判断し、決断していることに変わりはないのです。「現実の人間関係」で困難を感じている人から、「どうしていいか分からない」という訴えを耳にすることは珍しいことではありません。相手とのやり取りに於いて、その都度展開していく事柄に応じて、私たちは自らの言動を選択していかなければならないのですが、この人はそれに困難を感じておられたのでした。つまり、その都度、選択し、判断し、決断する自己が不十分だったのです。これはスキルの問題ではないのです。
このことを音楽で喩えれば、「現実の人間関係」は常にライブ演奏、生演奏をしているわけです。「ネットの人間関係」は重ね録りの世界であるわけです。やり直しや準備期間が認められる世界なのです。
(50―7)現実の人間関係の方が条件が厳しい
こうした「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」の違いを見ていくと、「現実の人間関係」が困難であると述べる人のことが見えてくるようです。「現実の人間関係」の方がはるかに厳しいのです。「現実の人間関係」においては、自分であるということを引き受けていなければなりませんし、その都度、選択・判断・決断できる自己が備わっていなければならないということです。そこではやり直しができなく、相手と同時進行するプロセスに自ら関わって行かなければならない世界なのです。そうした意味で「現実の人間関係」の方が条件が厳しいのです。
従って、「現実の人間関係」が築けず、「ネット上の人間関係」だけで生きているという人がいるとすれば、その人は自分自身に関しての問題を抱えていると考えることができるのであります。これは必ずしも「人間関係」の問題やスキルの問題ではないということになるのです。現実の人間関係では常に今の自分が問われてしまうのであります。
(50―8)あなたは私の何と関係しているか
さて、この文章を読まれているあなたは、私とは面識がない方であるかもしれません。今、あなたはこれを読んでいて、一体私の何と関係を築いているのでしょう。
あなたは何かを調べたくていろいろ検索されたのでしょう。あなたにとって書いた人間のことなどどうでもいいかもしれません。しかし、これを書いたのはどういう人だろうと、いろいろ推測を働かせている人も中にはおられるかもしれません。
私は私の体験したことや考えていることをこのサイトに掲載しています。あなたはそれを受け取っています。でも、あなたが見ているのは、私ではないのです。私の書いた文章と対峙されているのです。そこには私にあるものが顕現しているとは言えますが、それは私の一部であるところのものです。私という人間全体があなたの前に現れているわけではありません。
あなたは私の一部を受け取っています。私の考えであり、体験です。でも、あなたは私という一人の人間を体験しているとは言えないのです。もしかすると、あなたは私がどんな人間であるかをイメージしているかもしれません。そのイメージ化された私と関係を築いておられるかもしれません。そのイメージは私の一部から構成された私であり、現実の私とはまったく異なる私であるかもしれません。
もし、百人がそういうイメージ化された私を有しているとすれば、そこに私であって私ではない私イメージが百人存在することになるでしょう。私の知らない所で、私でない私と内的関係が築かれているとすれば、ネットの人間関係というものは、私にはとても恐ろしいものに思われてくるのです。
何が言いたいのかと言いますと、「ネットの人間関係」はイメージや空想が先行する関係であるということです。私たちが誰かと会った時、相手から受け取る印象があります。いわゆる「第一印象」というものです。「現実の人間関係」ではこの第一印象から始まり、それに基づいて関係が築かれることが通常なのですが、「ネットの人間関係」では、この第一印象以前になんらかの印象が刻まれているということです。そして、この第一印象以前の印象と関係を築いてしまっていることになっているのではないかと思うのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)