<テーマ47> 依存症の時代

 

(47―1)人は何かに依存している

 「みんな何かに依存している。依存していなければいられないようだ」

 ある時、一人のクライアントがそうおっしゃられたことがあります。会社員である彼によると、会社の人たちは仕事を終えるとさっさと帰って、その人が依存していることをするのだと言うのです。依存しているものとは、人によって様々です。ある人はお酒を飲むし、ある人はネットに耽る。お喋りや買い物に耽る人もあれば、セックスに耽る人もあると、彼は話してくれます。

 彼の言わんとするところは、そういう依存対象に関わっていないで、自分にも目を向けて欲しい、自分の相手もして欲しいというところにありました。彼のことはさておくとして、彼の言うことは確かにそうだなと納得させるものがあります。私たちはみな、何かに依存しているのでして、私もやはりそうなのです。現代は依存症の時代だと言ってもいいのかもしれません。

 

(47―2)私の依存対象

 「依存」というページを設けましたが、これはそのような「依存症」に関しての事柄を記述していこうという目的でそのようなタイトルになっているのです。「依存症」という現象について、本項では概観しておくことにします。

 「依存症」を図式的に述べますと、依存症とは、依存対象に対して依存行為をするということを指しています。アルコール依存と言えば、アルコールという対象に対して、それを摂取するという行為をするわけです。それはギャンブルであろうと、薬物であろうと、対象が違っても、その構図は変わらないのです。

依存される対象に関しては、どのような事柄であっても依存対象になり得るものです。例えば、私などは活字依存症(そのような診断名があるわけではありませんが)です。それはこのホームページを見ていただいても理解できるかと思います。私は鞄の中に常に三冊くらい本が入っていないと不安になるのです。専門分野の本や、関連領域の本、小説や新書、雑誌、新聞というものが常に入っているのです。本は三、四冊を並行して読みますし、本を読む気分になれない時に読む本というものも私にはあるのです。それだけ活字に依存していることになるわけです。

 

(47―3)一人の人が複数の依存対象を持つこともある

 また、一人の人が複数の依存対象を抱えていることもあります。私は活字依存の他に、アルコール依存でもありました。ニコチンやカフェインへの依存もあります。仕事への依存もあるかもしれません。

つまり、「依存症」とは、依存対象に対して、依存行為をするわけですが、その依存対象の内容は問われないということです。対象の種類は「依存症」そのものと関係がないのです。そのため一人の人が複数の依存対象を有していてもおかしくはないのです。

 

(47―4)依存と強迫

 「依存症」を述べていくに関して、「強迫症」との関連も述べていかなければならなくなるかと思います。ある種の「依存症」は「強迫的」な性格を帯びてきますし、「強迫症」の中には依存性を高めてしまうものもあるのであります。しばしばこの両者は切り離して考えることができないこともあります。

 しかし、決定的な違いも両者にはあります。「強迫症」には依存対象というような明確な対象を持たない場合があります。それは思考であったり、観念であったりするのです。ある事柄を強迫的に観念として浮かべてしまうからと言って、その人はその観念に依存しているとも言えないのであります。明確な依存対象が存在するか否かという点が、両者を区別する一つのポイントになります。

 

(47―5)依存症への経緯

 さて、ある人が何かの「依存症」に陥ってしまう時、私たちはその人の「依存症」がいつ始まったものであるかを特定することが困難です。それらは最初は趣味であったり、ちょっとした愉しみで始めたことであったりするのです。そして、それが一つの習慣になるわけです。それがやがて当人を苦しめることになっていくのです。依存症の問題を抱える人を見ていくと、大体、このような流れを確認することができます。

 アルコール依存症を考えてみましょう。その人は初めからアルコール依存症ではなかったはずです。最初は依存症ではない人たちと同様に、憂さ晴らしや愉しみの目的で飲酒していたはずです。しかし、徐々にお酒が飲みたいという飲酒欲求が生まれてきているはずです。それがやがて、毎日のようにお酒が欲しくなり、止められないようになっていくとなると、私たちはようやくその人をアルコール依存症と認識し始めるわけです。

 ここで問題となるのは、どこからが依存症と見做され、どこまでがその範疇から外れているかという問題で、「依存症」と「習慣」の境界線をどこに設定するべきかということなのです。私の経験では、この境界線を明確に線引きすること困難なのです。

 

(47―6)依存の基準問題

 この問題に関して外的な基準を設けることがあります。アルコール依存症を例にすれば、純アルコールにして200㏄を毎日摂取しているということが一つの診断基準となっています。しかし、このような診断基準はあまり当てにできないと私は個人的には考えております。なぜなら、アルコールに強い人もいれば弱い人もいるはずであり、その個人差に関係なく、一律に摂取量で考えることは多くの見落としを生み出すのではないかと私は思うのです。お酒にそれほど強くないアルコール依存症の人も実際におられるのです。

 つまり、外的な基準で「依存症」を計ることはできないということです。ギャンブル依存という場合、一日に何時間以上ギャンブルをし、尚且つ、一回にいくら以上の金額を蕩尽し、それがどれくらい続いている状態をギャンブル依存症と診断するというように定めたとしても、その基準から外れてしまうギャンブル依存症者もたくさん出てくるはずなのです。逆に、自分はまだその基準までは達していないから大丈夫だと信じてしまうことの方が、私の経験では、問題が大きいのです。

 

(47=7)星の王子様と呑み助のやりとり

 「依存症」ということを理解するに当たって(もちろんこれは私が理解している範囲でということでが)、私は次のような視点を持つようにしております。とても分かりやすい例がサン=テグジュペリの「星の王子様」の中にありますので、少し引用してみることにします。

 王子様は自分の星から出て、地球に辿り着くまでにいくつかの星に立ち寄ります。その中に呑み助の星というのが出てくるのです(第12章)。王子様は呑み助に「何してるの」と尋ねます。呑み助は「酒のんでるよ」と答えます。王子様は「なぜ酒なんか飲むの」と問いますと、呑み助は「忘れたいからさ」と答えます。「忘れるって、何を」と王子様。この問いに対し、「恥ずかしいのを忘れるんだよ」と呑み助が答えます。さらに続けて王子様は「恥ずかしいって、何が」と問います。すると呑み助は「酒のむのが恥ずかしいんだよ」と答えるのです。

 この明快なやりとりは依存症の姿をよく表しているように思います。呑み助にとって恥ずかしいこと(原因)があって、その恥ずかしいことを忘れる(目的)ために飲酒(手段)をしていたわけです。しかし、手段が原因となり、その手段を必要とする目的を生み出さなくてはならなくなってしまっているのです。

ストレス発散で始めたことが、ストレスを生み出す元凶になるわけです。これが依存症のもう一つの構図であると私は考えています。そこにはもはや歓びとか満足というものが欠落しているのです。

 

(47―8)依存対象はかつては救いをもたらしていた

 言葉を換えて言えば、依存行為はかつてその人に救いをもたらしていたものだったのです。それがもはや救いをもたらさなくなり、更なる苦悩を生み出しているのです。その苦悩からの救済のために、相も変わらず同じ依存行為を繰り返し、苦悩を生み出し続けてしまっている状態なのではないでしょうか。従って、依存行為が当人に救いをもたらさなくなった時点で、依存症の始まりであるという捉え方を私はしております。

 ところで、これだけは押さえておきたいのです。ある人が何に依存しようと、その人は依存対象に救いを求めていたということです。それが救いをもたらさなくなっても、その人はその依存対象に救いを求めていると言えるのです。これはいずれ述べていくことになるかと思いますが、ここで強調しておきたいことは、次のことです。依存症者は救いを必要としていた人であり、救われる必要のある人であるということであります。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

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