<テーマ40> 親子関係の不条理
これから親子関係について述べていこうと思います。
カウンセリングに訪れるクライアントは多かれ少なかれ、自分の親との関係での苦悩をひきずっているものです。親との関係は、クライアントに限らず、すべての人にとって重大なことではないでしょうか。親子関係において、あくまで傍観者に徹しられるという人は稀だと私は思います。どの人も、その親子関係には必ず感情をかき乱されるような体験が潜んでいるものだと私は考えています。
もう少し正確に述べると、私たちは自分の親子関係にまきこまれており、傍観者でいることが許されず、そこには感情を掻き乱されるような体験や領域を有しているということなのです。これは一つの基本的な前提として提示しておくことにします。
親子関係を考えていくに際して、前提とするところをもう二つ押さえておくことにします。
まず、親子関係には二つの相があるということです。それは自分と親との関係という相と、自分が親になってからの子供との関係という相であります。両者はともに「親子関係」として同等に考えていく予定でおります。そして、この両者は意外と切り離せないものなのです。
次に、もう一つの前提は、それが実の親であっても義理の親であっても、それは問わないということであります。その人の養育者をここでは「親」とみなし、その養育者とその人との関係も等しく親子関係としてみなすということです。これは子供が養子であるという場合でも同様です。つまり、成長の過程において、長い年月に渡って、養育的な関係を築いているという人をすべて「親」とみなすということであり、それが実の親でも義理の親でもそれは問わないということです。
さて、本項のタイトルにもありますように、親子関係とは不条理なものであると私は捉えております。それはとても理不尽でさえあり、多くの矛盾を孕んでいるのであります。
まず、私たちは自分の親を本当に知ることはないということが挙げられます。私が知っている親は、私が生まれてから後の親であります。私が生まれる以前にも親には親の人生があったということは理解できるのです。しかし、私が生まれる以前の親というのは、どこか神話のような趣がありまして、私には謎なのです。
そして親子とは、いずれ離ればなれになっていくことを自明の前提として長い関係を築いていくのです。親離れ・子離れを双方がしていかなければならない関係なのです。親が子供を手放したくないと思っても、子供はそれを達成し、親は子供の行為を受け入れなければならないのであります。これもまた、不条理なことだと私は思います。
ここで、私はある母子を思い出します。カウンセリングを受けに来たのは、子供の方で、男性でした。彼は自分の人生を築こうとしていました。しかし、そこには常に母親の存在が入り込んできて、彼は挫折を繰り返し経験してきたのでした。ある時、彼の母親がカウンセリングについてきて、私は母親とも会うことになりました。彼女はいかにも弱々しげで、息子だけが唯一の頼りといった感じでした。クライアントが親離れしていくことは望ましいことではありましたが、この母親が一人残されていくような姿はとても痛々しかったのを覚えております。それでも私はクライアントがしようとしていることは、健康な男の子であれば誰もが成し遂げていくものであること、それに耐えることが親の義務でもあるということなどをこの母親に話しました。母親は涙ながらに私の言葉に耳を傾けていました。彼女は我が子が親離れしていくことを受け入れなければなりませんでした。そうしなければ子供の方がダメになってしまうからであります。
子供が親を本当の意味では理解できないのと同じように、親が自分の子供を理解することも、不可能ではないにしても、相当困難であります。基本的に、大人は子供を理解できないと私は捉えております。
そんなことはないと反論される方もおられるかと思います。「自分もかつては子供だったのだから、子供を理解することができるはずだ」と、そうお考えになられるかもしれません。それは確かにその通りです。私もかつては子供でした。だから子供を理解できる可能性はあるのです。しかし、今、私が子供ではないからそれが難しいのです。
従って、子供を理解する必要が本当に生じたとき、既に私たちはそこから遥か遠く隔たった所に立ってしまっているのです。これもまた不条理なことです。
親と子は、死別を経験するものであります。子供の方が先に亡くなってしまう例もよくありますが、大抵は親の死を経験する人が多いのではないでしょうか。
もちろん、死別ということは避けられないことであります。しかし、それで親子関係が終わるわけではないのです。仮に、親が亡くなったとしても、子供の中では親との関係が続くのです。関係だけでなく、親との間で培った葛藤までもが、親の死以後も子供の中で残ることも多いのです。これもまた不条理なことです。
父親を恨んで生きてきた女性の事例を以前に掲げたことがあります。彼女はその例の一つです。一方が亡くなって、それでその関係が終わりということにはならないのです。親が亡くなっていても、子供の中では、内的な親との関わりが続いていくものなのです。つまり、親子関係とは死別によって終わる関係ではないのです。
親子の関係が愛情で結ばれていれば、それは望ましいことでありますが、どれだけ愛情で結ばれていても、子供は親との関係で傷つきを経験するものです。どの人も、人生最初の傷つきは親から与えられるものであると私は捉えております。子供を傷つけないようにということを強調される方もおられるのですが、その考え方に私はあまり賛成ではありません。もちろん虐待であるとか、あまりに強すぎる傷つきに対しては反対です。しかし、ごく自然な親子関係であっても、その中で子供は傷つきを体験してしまうものなのです。そして、時にはそれが必要な傷つきであるという場合さえあるのです。このことはいずれ詳しく述べていく予定でおります。
一方、次のことをも述べておかなければなりません。子供は親との関係において傷つくものでありますが、その傷の手当てもまた親との関係で体験されるものです。私たちが大人になって、親との関係から「神経症」的な生き方を送ってしまっているという場合、親から受けた傷が苦しいのではなくて、受けた傷に対してケアがなされなかったことが苦しいのだという事実に向き合うことになるのです。もちろん、これはカウンセリングを通して得た私の個人的な見解に過ぎないかもしれませんが、クライアントの多くは、本人たちは意識していないかもないけれど、受けた傷で苦しんでいるのではないのです。傷ついて、尚且つ、放置されてしまった自分に耐えられないというような人がやはり多いという印象を受けるのです。このことも今後述べていく予定でおります。
とにかく、親子関係というのは、たとえ愛情で強く結ばれていたとしても、お互いに傷つけ合ってしまうということが避けられない関係だと私は捉えております。これもまた不条理なことではないでしょうか。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)