<テーマ4>「こうあるべき自分」から「こうありたい自分」へ

 

 本項のタイトルは、お気づきのように、本サイトのトップに掲げられている文句であります。こういうトップの文句を素通りしてくださる方々は構わないのですが、目についてしまって、気になってしまうという人のために、この文言について説明しておこうと思います。

 そもそも、この文言は以前HPを作成してくれた会社の人が考えた文句を、一部、私が言い直したものであります。その担当者は、私と面会し、カウンセリングに関する私の考えなどを聞いて、その上でこの文句を考えてくれたのでした。私の話からその担当者が受け取ったメッセージとして私は捉えており、私の考えが一般の人にはそのように伝わるのだと認識しています。

 ただ、その担当者の考えた文句というのが、ちょっとそのままでは使えない箇所があったので、その意味内容は変えずに、一部分だけ言い回しを変えて、現在掲載されているこの文句になったのであります。

 

 さて、「こうありたい自分を目指す」というのは、夢がかなうとか、なりたい自分になれるとかいう意味ではありません。よくそこが誤解されてしまうのですが、そういう意味ではないのです。結論を簡潔に述べれば、これは「健全で適切な自己愛を育てる」という意味合いなのであります。詳しくは後に述べていくことにして、まず、「こうあるべき自分」という部分から述べておきましょう。

 

 その前に、「こうあるべき」も「こうありたい」も、現在の私においては、いまだ実現していない私であるので、「私」という言葉は避け「自分」という言葉に換えています。それは具体的且つ現実的な「私」ではなく、想像されている「私」であり、それは「自己像」に近いものであり、客体化されている「私」であるので、「自分」という言葉にしているわけであります。

 「こうあるべき」も「こうありたい」も現時点では実現していない「私」であり、まだ存在していない「私」であり、到達点として遠いところに位置している「私」であります。その点に関しては両者は共通しています。

 では、この両者の違いは何かということが問題になってくるのですが、簡潔に私の結論だけ述べておきます。「こうあるべき」は外部によるものであり、「こうありたい」は内面からのものであるという違いであります。

 つまり、「こうあるべき自分」というのは、他者の期待などによって構成されている「私」であります。「こうありたい」というのは、私の内面の欲求や理想によって構成されている「私」という違いである、というわけです。特に目新しい考えでもありません。

 

 ただし、「こうあるべき」の方には「こうあらぬべき」が対応していることもあります。「こうあらぬべき」へと自分が堕落していくように自分自身が体験されるほど、「こうあるべき」を強く持つようになるということも生じるのであります。「こうあるべき」の方にはある種の強制が伴っていることもあるわけであります。

 さらに、「こうあるべき」の方には完全主義的な傾向が潜んでいることも多々見られることであります。こういう自分であるべきだという信念は、それから少しでも外れてしまうことを許容できないのであります。従って、「こうあるべき」とは、それより上でも下でもあってはいけないということになり、自分自身をある状態に固定し、一地点に拘束し、停滞させてしまう信念と言えるのです。上昇することも下降することも、広がりを持たせることも狭めることも、「こうあるべき」の方では容認できなくなるわけであります。つまり、自由を締め出してしまうのであります。

 仮に、「テストで100点満点をとる人間になるべきだ」という信念の持ち主は、99点では失敗であり、120点の出来栄えでも罪悪感を覚えてしまうのであります。もちろん比喩的な表現でありますが、それより上でも下でも許容できなくなるのです。

 従って、「こうあるべき」というものは、何かを目指しているのではなく、固定した不変の状態を示していると私は考えています。そこには自由もなければ、変化や成長への可能性も閉ざされているのであります。

 それに対して、「こうありたい」という方は、常に変化や成長への可能性に開かれているということができるのであります。
 先に、「こうありたい自分」を目指すということは、夢を叶えるということや、「なりたい自分になれる」というようなことを意味するのではないと申し上げました。それらは「歪んだ自己愛」に基づくものであると、私は捉えております。
  私が思うに、現代の日本では「夢が叶う」とか「なりたい自分になる」というようなことに価値を置きすぎているように見受けられるのであります。人にはそれぞれ自分なりの夢や希望があるのはわかりますし、それはそれで結構なことなのですが、一個人の「夢」を叶えられることほど迷惑千万なこともないだろうと私は思うのであります。
 例えば、あなたは将来医者になりたいと考えているとします。この場合、あなたの夢は「医者になること」ということになります。あなたが自分の夢を達成しようと努力するのは構わないのですが、その夢のために犠牲になる人や奉仕せざるを得ない人たちも現れてきます。あなたによって蹴落とされるライバルも出てくることでしょう。あなたにとって自分の夢は至上の関心事でしょう。応援してくれる人も現れることでしょうが、結局のところ、あなたが医者になることは誰も望んでなどいないのであります。そこにあるのは、あなたが医者になるかならないかだけなのであります。
 また、あなたは自分の夢だけを考えて生きていくこともできます。周囲の事柄には全く目を向けずに、つまり犠牲になった人や奉仕してくれた人や敗れたライバルたちを無視して、ひたすら自分の夢だけを追求することもできるのであります。それが何になるのでしょうかと、私は思うのであります。このような人こそ「歪んだ自己愛」に支配されているのだと私には思われるのであります。
 実際にそのような人を私は知っております。その人が自分の夢を叶えようと躍起になるのは構わないのですが、なにしろ自分のことしか見えていないので、彼のために力を尽くした家族や周囲の人たちは本当に気の毒なほどでした。彼らにてみれば、その人に「夢を断念してくれないかな」と言いたかったことでしょう。自分の夢だけしか見えていなかったので、その人は恐らく、他人の犠牲や奉仕を当たり前のことと捉えていたように私には見えました。彼は自分が「不遇」で「不公平だ」と愚痴をこぼしていましたが、私はその人に「もっと周りの人のことを思いやりなさい」と言いたくなる衝動を感じておりました。
 私が「こうありたい自分を目指す」と言う場合、あなたに上記のような人になってもらうことを願って言っているのではありません。私がその言葉で伝えたいと願っていることは、あなたの「健全な自己愛を育てていく」という意味なのであります。

 「こうありたい自分」を目指すと言う場合、その人は何をしなければならないのだろうかということについて、次に述べていくことにします。
 「こうありたい自分」にしろ、「こうあるべき自分」にしろ、それはその人の自己像と関係しているのでありますが、その自己像が何に基づいてその人に描かれているかということも問題になるのであります。「歪んだ自己愛」に基づいて「こうありたい」姿を描くとすれば、それは当然歪んだ姿になるでしょうし、現実的でない姿を描くことになるでしょう。自分自身を偽っているというような人が描くとすれば、それは「偽りの自己」に基づいて描かれている姿ですから、当然偽りの姿を目指していくことになるでしょう。
 つまり、ここで肝心になってくるのは、「こうありたい自分」を目指す場合、偽りのないその人自身に基づいて目指されなければならないということになってきます。従って、何よりも先に、その人がその人自身にならなければならないということになります。それが絶対に必要になってきます。

 最後に次のことも強調しておく必要があるでしょう。「こうありたい自分」を目指すということは、その人の中に、自己を確立することでもあるということです。
 「人間はこうあるべき」といった表現は、たとえば人生論や道徳、宗教に関する本をひもとけばいくらでも出てくるものであります。あるクライアントは何冊もの人生論を読んだと語りました。私が「それは役に立ちましたか」と尋ねると、彼は「それが、あまり・・・」と言葉を濁されました。私は彼の言わんとする所のものが分かるように思いました。ここにはサルトルが神を否定した表現と同じ図式が働いているように思いました。
 サルトルは「神が不在なために人間は不幸である」というようなことを述べております。こういう言葉のためにサルトルは無神論であると言われてしまうのですが、サルトルが言わんとするのは次のことにあります。聖書などには、例えば「敵を愛しなさい」というような言葉が記されているとしても、人間が直面する個々の状況に於いては、そうした言葉が役に立たないことも多い。つまり「こうすべきだ」というような教訓がどれだけあったとしても、個々の状況においては、自分の振る舞いは自分でその都度決定していかなければならないということになります。人は困難な状況で、神にすがりたいとか、神の指針を求めたいと願っても、皮肉なことに人間はそういう時にこそ、神がいないということを思い知らされてしまうということになるのであります。サルトルが述べているのはそのようなことであると、私は捉えております。
 人生論を読破していった先のクライアントも同じような体験をしてきたのだろうと思います。「人間はこうあるべき」といった教訓は、それ自体は意味があっても、それが彼の直面する具体的な個々の場面においてはいかに役に立たなかったかということを、彼は実感していたようであります。
 教訓にしろ、自己像にしろ、「こうあるべき」というものは、実は意外と当てにできないのではないかと、私は個人的に捉えているのであります。むしろ、「こうあるべき」というものに頼るのではなく、人間は自分自身に頼らなければならなくなるということでありまして、その都度、人間は自分の行為を選択していかなければならない存在であるわけであります。そして、自分自身の行為を選択し、決定していくためには、そこに確立された自己が不可欠なのであります。ここで言う自己というのは、その人の「核」のようなものと捉えていただければ結構であります。
 従って、「こうありたい自分」を目指すということは、その人の「核」の部分を育てていくということにもつながるのであります。

(本項の要点)
「こうありたい自分を目指す」ということには、その人が自分の自由や成長・変容の可能性に開かれること、その人の「健全な自己愛」を育てること、その人自身になっていくこと、その人の「核」の部分をしっかりしたものにしていくこと、そういった意味合いが含まれているということであります。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラ

 

PAGE TOP