<テーマ2>記述・書き方に関して

 

(2-1)見えないものを説明することの難しさ

(2-2)科学的な記述法

(2-3)文学的な記述法

(2-4)個人史的に理解すること

(2-5)あなたに似た人たち

(2-6)事例の記述に関して

 

 

(2-1)見えないものを説明することの難しさ

 このサイトを読んでくださる方々の中には、私の書いていることがどうも分かりにくいなどとお感じになられる方もおられることだと思います。

 それは内容がよく分からないとか、何か難しいとか、そういう意味合いだけでなく、もう少し明確に述べてほしいとか、要するにどういうことなのと問いたくなるような気分であるかもしれません。

 私の文章の拙さにもその因があるのですが、取り上げるテーマがそれぞれ実体のないものであることも関係していると思います。心とか対象関係とか、あるいは思考とか感情などが目に見えるものではないためであります。それをどうにか言葉にしようと試みているわけなので、私自身、上手い表現が見つからない時もあります。

 そうした対象テーマの不可視さもあるとは言え、やはり私の書き方の癖なんかも影響していることでしょう。そのため、本項では私の書き方について少し説明しようと思います。

 

(2-2)科学的な記述法

 物事を記述する際には次のような二つの記述法があります。一つは「科学的な記述法」と名付けられるものであり、他方は「文学的な記述」と呼べるものです。

 「科学的な記述」というのは、例えば、データを提示し、それを検証し、そこから法則等を導き出すといった記述の仕方のことです。こうした記述は、読む側も理解しやすいものです。

 例えば、収集したデータを提示して、それに統計処理を施し、「わが子を虐待する親は子供時代に親からの虐待を経験している」という結論を提出するのです。このような表記は読者としても分かりやすいし、結論が簡潔に伝わってきます。

 ところが、私が個人的に思うところでは、このように「科学的な記述」で「科学的に導き出された」結論は、人にある種の思考の型を課してしまうこともあると思うのです。現実にはその結論に当てはまらない人もいるのですが、その結論を支持するかのように認知を歪めてしまったり、その結論に押し込んでしまったり、そういうことも生じることがあるように思います。

 データや法則というものは、個人差や偶然の影響を当然受けているのですが、極力そういうものが入り込まないようにされてはいます。しかし、そのデータや法則を活用する際にはそうした個人差などを考慮しなければならないはずなのですが、そうしない人も少なからずおられるのです。だから、ある人にはその法則が該当し、他の人には別の法則が該当するといった場合もあるのですが、その人たちにとっては、それは矛盾していることになるそうです。「あなたはこう言ったでしょう。なのに、どうして今度はそれと違うことを言うのだ」とお怒りになられた方も私は知っています。あまり一般化した書き方をするわけにはいかないと思うのです。

 

(2-3)文学的な記述法

 上記のような「科学的な記述」を私はしないことにしています。その代わり、私が好むのはもう一つのスタイルである「文学的な記述」であります。本サイトにおいても、私はもっぱらこの記述スタイルを採ることになります。

 「文学的な記述」というのは、一人の人間にどういうことが起こり、その人がどのようになっていくかを描くというスタイルです。そこでは結論や法則は求められません。ただ、そのプロセスを追っていくということがなされるのです。

 本サイトにおいても、一人のクライアントにどういうことが生じ、どのような体験を積んできたか、カウンセリング過程においてどのようになっていったか、そしてどのように変わってきたかということを追っていくような記述をします。つまり、個人事例を展開することが多くなると思います。

 このような記述は、文学的な方法であり、私はこちらの書き方の方を好みますし、何よりも、生きた人間を描くためにはこの記述方法でなければならないと私は考えています。

 

(2-4)個人史的に理解すること

 もう少し両方の記述スタイルについて説明しましょう。

 「子供時代に親から虐待を受けた人は、親になった時、自分の子供に虐待してしまう」という記述は、「科学的な記述」であるわけです。ここでは一つの法則が提示されていることが分かります。おそらく、それに関するデータが集められていることでしょう。こうして提示される法則は読み手にすんなりと入っていくわけです。

 一方、「文学的な記述」においては、そのような提示をすることはできません。そこでは子供を虐待してしまう母親が、子供時代に自分の母親をどのように体験してきたか、家庭を築くことに対してその人はどのような感情を抱いていたか、出産はその人にとってどういう意味があったのか、どうしてこの時期になって虐待が始まったのかなどそうした母親の個人的な事柄を見ていくのです。虐待をしてしまう時、この母親はどのような状態にあったのか、夫とはどのような関係を築いているか、母親が自分自身や自分の生をどのように理解しているか、どのような願望を抱いてきたのか、どのような失望を経験してきたのか、彼女にとって我が子とは何であるか、等々あくまでも個人史的に理解していくのです。

 ここではあくまでもその人個人を中心にした記述が展開されています。法則を導き出すような記述は一切見られません。法則性は導き出さないけれど、ここでは一人の母親の現実が描き出されているのです。私がこの母親を理解しようとするなら、どうしてもこうした記述になるのです。そして、これは文学的な手法であるわけなのです。

 

(2-5)あなたに似た人たち

 できるだけ事例を通して考えていきたいと思います。私のクライアントたち、それと日常で出会った人たち、過去に関係のあった人たちにも登場してもらうかもしれません。

 一つだけ重要な点は、ここで描かれている人たちは何も特別な人ではないということです。クライアントたちもまた他の人たちと同じ人間であります。あなたに似た人たちなのです。この点は特に強調しておきます。

 その理由を少しだけ述べておきましょう。よく「心の病なんて自分には関係がない」という態度を固持される方や「カウンセリングなんておかしい人間の行く所だ」などと主張される方々もお見かけするのですが、私から見ると、その人たちの方がはるかに「病的」なのです。心の健康な人は、たとえ誰かが心の病に罹っているとしても、その人を排斥するような態度はとらないものです。自分の中にも同じものを見出し、彼らに対して共感を示すこともできるのです。だから「自分が彼らだったかもしれない」という感覚を普通に持っているものなのです。

 そんなふうに一部の人を排斥しなければならないとすれば、その人は何か深刻なものを抱えているのだと思います。心を病む人を通して自分の何かを見せつけられてしまうから排斥したくなるのかもしれません。だからそれだけ具合の悪いものを余計に抱えている人の言動であるように私は思うのです。

 私の希望は、私が描くクライアントたちを通して、あなたが自分の何かを感じ取ってほしいと思いますし、自分の中の同じものを見つめる契機となればいいと思っています。あなたの好奇心を満たすためとか、興味本位で、あるいは覗き見趣味を満たすために読んでほしくはないのです。事例に描かれている人たちは、あなたの代わりにそのような体験をしてくれているのかもしれません。彼らの貴重な体験から真摯に学ばれることを私は望むのです。

 

(2-6)事例の記述に関して

 事例を提示するのは、もう一つ理由があります。カウンセリングというものがどうしても密室で営まれる作業であるために、なかなか外部の人にその姿を見てもらえないという事情のためです。

 カウンセリングを知ってもらうためには、その現場を見ればいいのですが、そういうわけにもいきませんし、また、当事者でなければその意味が分からないという部分も多分にありますので、できるだけ解説を交えながら、事例として記述していくしかないのです。

 さて、私のカウンセリングを知ってもらうには、私のカウンセリングの事例を提示する必要があるということになるのですが、事例を書くとなると、どうしてもクライアントの個人的な事柄に触れざるを得なくなります。一方で私にはクライアントの秘密を守る義務もあります。

 このようなジレンマを解消するために、私はそれぞれの事例に対して、以下のようなアレンジを加えています。

 

・省略。実際のカウンセリングではもっとたくさんの事柄が話し合われているとしても、事例として記述する場合には必要な部分だけを取り上げ、それ以外の部分はすべて省略しています。

 

・強調。事例を通して知ってもらいたいと私が考えている部分に対しては、あなたにより理解してもらえるように、実際よりも強調して述べることがあります。つまりいささかオーバーに述べたりすることもあります。

 

変更。それが必要な情報であるけれど、それが特殊なものであったりして、そのまま述べてしまうと個人が特定されてしまいそうな場合は変更を加えたり、曖昧にぼかしたりすることもあります。

 

・結合。一人のクライアントについて記述しているけれど、別のクライアントのエピソードを交えることもあります。複数の人の事例を一人のクライアントのケースとして提示するということです。

 

 その他にもいくつか方法があるのですが、現実の例に加工を施すのは、そのクライアントが特定できないようにするための配慮であり、クライアント個人を守るためにそのようにしているという点をご理解していただければと思います。

 従って、記述される事例は、必ずしも現実の一人のクライアントをそのまま描いているわけではないということになりますが、だからと言って、まったく架空の事例は一つもないということになります。

 肝心な点は、カウンセリングにおいて、どういうことがそのクライアントに生じ、どのようになっていったかのプロセスを綴ることにありますので、個人の秘密を暴露しようなどとは私は思いませんし、まったく架空の事例でも本当は構わないことだと思っています。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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