<T008-07>挨拶集(3)
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<11>平成27年2月のご挨拶
<12>平成27年3月のご挨拶
<13>平成27年5月のご挨拶
<14>平成27年5月のご挨拶
<11>平成27年2月のご挨拶
寒い日が続き、毎日が厳しく感じられるのは私だけではないと思います。寒さだけではなく、生活や自分の状態もまた辛いという人もおられることでしょう。そういう人たちもどうにか日々を送れているのであれば、それに越したことはないと私は思います。なんら望ましい兆しが見えない中で、ただ生きている、あるいは、どうにかこうにか、とにかく生きているという状態も価値のあることだと私は思います。
苦悩を抱える人に対して、何か支えになるようなことを言いたいとは思うのですが、どうやらその正反対のことを書いてしまいそうです。どうか勘弁してください。
先月、あるクライアントが「自分はどん底に堕ちました」と漏らしました。身動きが取れず、八方ふさがりの状況の中で、好ましい方向になかなか向かっていかない状態のその人がそう漏らしたのです。「どん底」に堕ちた彼を私は祝福します。
決して皮肉とか嫌味とかいうことではありません。私の言いたいことは次のことです。まず、私たちは誰も人間の「どん底」を知らないのです。それがどこまで深いのか誰も知らないのです。だから、「どん底」に堕ちたというのはその人の主観的体験なのです。
そして、「どん底」に堕ちたというように体験されているとすれば、それはその人の心の状態に以前とは変化が生じているのです。現実にはもっと堕ちることも可能なのかもしれません。でも、その人は底辺に達したという体験をするようになっているのです。心の状態が変わってきているので、今までとは違った体験や認識が生まれているのです。
このように考えると、「どん底」に堕ちるという体験は、その人がそれ以上堕ちるのを止めた地点、あるいはこれ以上堕ちないと決断する地点を指しているのかもしれません。実際、私はそのように考えています。
もし、あなたに「どん底」まで堕ちたという体験がおありでしたら、どうぞその時期のことを振り返ってみてほしいのです。現在において振り返ってみると、あの「どん底」の時期は一つの転回点だったということが分かるのではないでしょうか。
だから、人は「どん底」に堕ちるという体験をしないといけないのかもしれない、そう言うこともできそうです。実際、人はそういう体験をする必要があるのかもしれませんし、一部の人たちにおいては決定的にそれを体験する必要があるかもしれません。
さて、「どん底」に堕ちるという体験は人生の転回点ともなるのですが、手放しで喜ぶわけにもいきません。と言うのは、あなたが「どん底」に堕ちた時、あなたの真価が問われるようになるからです。
「どん底」に堕ちたあなたは、そこから這い上がろうという選択をすることもできますし、もっと堕ちるという選択をすることもできます。「どん底」に留まり続けることもできますし、人や社会を恨んで生きることもできます。あなたが何を選択するかで、あなたという人間が問われることになるのです。
もし、あなたが「どん底」に堕ちた時、あなたはどういう選択をしたいと思うでしょうか。どういう選択をしようと、人は「どん底」からスタートしなければならない場合もあるものだと、私はそう考えています。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<12>平成27年3月のご挨拶
3月とはどういう月だろう。4月から新生活を始めるという人もあるでしょうし、多かれ少なかれ環境が変わるという人も少なくないと思います。これまでの生活を続けながら、新しい生活の準備をする、3月とはそういう過渡的な月かもしれない。
この時期に相応しい話題をと思い、今月は「人は何事も達成しない」という自説を述べようと思います。
よく、クライアントは「この問題がなくなればどれだけいいだろう」などとおっしゃられます。その気持ちは分かるのですが、その考え方はいささか神経症的だと私は感じるのです。
まず、現実に問題を克服した人を見ていると、彼らは既に次のことに取り組んでいるということがよく分かるのです。それを克服した瞬間なんて実は本人も知らないのです。私にもそれは見えないのです。「問題が解決した、バンザ~イ」なんて瞬間はまず誰にも訪れないのだと思います。
私たちが一つの問題を克服したり、達成したりした時には、私たちは既に次の何かに取り組んでいて、そういえばあの問題がなくなっているなと、後になって気づくのです。次の段階に取り組むようになって、初めて、以前の段階を終えたということを知るのであって、それを終える瞬間を私たちは決して体験しないのです。
例えば、宝くじが当たったら家を買おうと考えている人がいるとします。宝くじが当たるまでは、その人は家を購入するという活動に従事することはないのです。ただ思い描いたりするだけなのです。そして、その人が実際に宝くじに当選した時、彼はその瞬間こそ喜ぶかもしれませんが、同時にその瞬間から彼は家を買うという目標に現実に取り掛かるのです。「宝くじに当選した、バンザ~イ」は即座に過去に属してしまうのです。
階段を上る時、右足が一つの段に着地した時には既に左足がその上の段に着地するために動き始めているようなものであり、私たちの経験はすべてそのようなものだと思います。なぜなら、私たちは連続の中に生きているのであって、区画された領域で生きているわけではないからです。一つの段階から次の段階へと、明確には区別できないのです。同時にそれらがなされているのです。
もし、あなたが何か深刻な悩みや困難な問題を抱えているとすれば、私はあなたはそれを克服できると信じています。ただ、その克服の瞬間がいつか訪れるとお考えになっているとすれば、私はそれは間違いですよとお伝えしたいのです。あなたがその問題を克服した時には、あなたは既に次のテーマ、次の問題に取り組んでいるでしょうし、それは以前の問題が解決に近づいている頃から既に取り組み始めていると思います。ちょうど、今までの生活を続けながら、新しい生活の準備に取り組んでいるのと同じようにです。そして、新しい生活に入って初めて今までの生活の意味が了解できるように、新しい問題に取り組むことによって、あなたは以前の問題の意味、あなたの人生におけるそれの意味を本当に了解することができるのです。私はそう信じています。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<13>平成27年5月のご挨拶
本の出版の話があって、4月はそれにかかりきりとなった。百枚ほど原稿を書いたけど、おそらく出版することなく終わるだろう。
特に結婚カウンセラーだとか夫婦療法とかを謳っているわけではないのに、私のところには日々夫婦関係などの相談が持ち込まれる。それについて考えていることを本にしようと思っていたが、もうその本そのものに興味を失くし、魅力も失せた。
まず、その本で私が主張しようと計画していたことが、それが当たり前すぎて注意を引かないか、突拍子なさすぎて反感を買うか、そのどちらかにしかならないだろうと見極めたのだ。そう思うと、出版するまでのこともないと思うようになった。
私が書こうとしていたことは、夫婦関係のことで、それもDVを中心にして考察していたのだが、とても簡単なことだ。不幸な夫婦関係を築いてしまう人は、結婚前からすでに不幸だったという主張なのだ。
現実には数値で表すことができない領域だけど、話を簡略化するために数字で表す。仮に「幸福度」が10段階評価されるとして、幸福な夫婦生活を送れる人は、結婚前にすでに幸福度8くらいを達成しているもので、最後の2点を結婚してから達成するという感じだと私は思う。
結婚前の幸福度が3の人は、結婚後もそれほど動かないもので、4か5になればいい方だ。また、相手もそれが低い場合、例えば相手の幸福度が1だとすれば、二人で4ということになる。二人合わせて20点満点中4点だとすれば、各人に平均すると、一人2点になる。幸福度1の人は相手との関係で2になり、3だった人は2に引き下ろされることになるわけだ。
原理は至って簡単である。幸福度が高いという人は、それまでに自分自身を拡張し、成熟へと方向づけられていて、そのために必要な自己改善もしてきた人である。そういう人は結婚してもその方向を維持するだろうし、同じように幸福度の高い人を相手に選ぶだろうと思う。少なくとも、その人にあっては、幸福度の低い人には魅力を感じないだろうし、友達としてなら別だけど、結婚相手には選ばないだろうと思う。そうして、高い者どうしが一緒になり、低い者どうしが一緒になるということがよく起きるようだ。
また、別の言い方をすればこういうことである。幸福度の高い人は、これまでも自ら自分を救済してきた人のことである。だから結婚後もその人は自己救済を自らしていくだろう。幸福度の低い人は、自分自身を救済することができないので、外側にその手段を求める、つまり結婚を自己救済の手段の一つにしてしまう。これが不幸な結婚の始まりだと私は思う。それが離婚の形であれ、DVの形で顕在化しようと、結婚して自分が救われることを望んできた一つの結果なのだと私は考えるのです。
結婚して、相手と夫婦になるということは、自分の幸福、自分の自己実現に加えて、相手の幸福、相手の自己実現ということも重要になり、さらには二人の幸福、二人の自己実現というもう一本の柱がそれに被さってくる。一本の柱を立てることが困難だった人が、この三本の柱を立てようとしても、それは負担が大きすぎて無理だというものだ。
自分の幸福や自己実現が覚束ない人は、結婚によって自分が助かる、救済されるという期待を抱きがちなのだけど、この期待は見事に裏切られることになる。それは一目瞭然である。最初の一本の柱を打ち立てることができていないのに、いきなり三本の柱を打ち立てることを求められてしまうからである。
以上が本の中で展開しようとしていた主旨である。求められるのは個々人の向上であり、精神的な発展であり、そのために必要な自己改善であるということだ。これから結婚しようという人も、すでに結婚している人も、あるいは結婚しないという人も、等しく課せられる課題なのだと私は思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<14>平成27年5月のご挨拶
平成17年の4月末に、私の高槻カウンセリングセンターがどうにか営業できる状態に至りました。あれから丸10年が経ったのだなあとしみじみ思うこの頃です。
先月は他の作業に手を取られてサイトの方が手つかずになってしまいましたが、今月からサイト作業を復活させるつもりでおります。
さて、10年続けるというのは、それはたいへんなことも多々ありました。浮き沈みも何度も経験しました。その中で見えてきたこともあります。
そこで今月は「商売」について述べようと思います。
ちなみに、今年に入ってから、うちのクライアントの継続率はほぼ100%であります。こちらから継続を勧めなかった場合を除いて、来た人のすべてが継続されています。もちろん、数の上ではそれほど多くはないのですが、きちんと継続してくれる方だけに来てもらっているので、仕事上のストレスも軽減した感じがしています。
私が思うに、「商売」で一番肝心なことは、売り上げを伸ばすことではなく、「売ってはいけない客には売ってはいけない」ということだけを心がけることであります。どうしてもノルマとかを課せられて、売り上げの数を競ってしまう状況があるのは確かですが、一番確かなのは、売っていい人にだけ売るということであります。
売ってはいけない客に売ると、その時は業績の数に加算されるのですが、後々、損失を生み出す元になるものです。私も苦い経験をしてそれを学びました。
私も初期の頃は来る人は拒まず式でやっていたのですが、結局、誰も彼も受け入れていくと、私の損失を生み出す人たちがそこに含まれていたことも理解できるようになりました。もちろん、その人たちは他所では利益を生み出す客になるかもしれません。ただ、私には損失になる人たちであるということです。
そのために、今ではクライアントをしっかり吟味するようになりました。本当に来てほしいと思う人にだけ継続を勧め、そうでない場合は、あまり継続を勧めないようにしています。また、できるだけ電話の問い合わせの時点でそういう吟味をするように心がけています。本当に来てくれそうな人にだけ予約を取ろうと思っているのです。
また、ありがたいことに、予約を取る時点である部分に注目すると、その人が本当に来てくれる人かそうでないかの予測ができるようになってきました。もちろん、常に予測が的中するわけではないにしても、けっこうな確率でそれが可能になってきました。
こうして、私は私の労力をできるだけ軽減するようにしているのです。これは商売の上では、経費削減よりも、はるかに効率的だと私は信じています。
これを読んで、あなたは「それじゃあ、お前はクライアントを選り好みするのか、一部の人だけを依怙贔屓するのか」と憤慨なさるかもしれません。私はお答えします。「その通りです」と。私は万能な人間でもなければ、それほど高尚な人間でもありません。意地汚い部分も多く、極めて人間臭い所の多い人間です。いちいちそういうことを隠して売ってはいけない客を招くよりかは、正直に堂々と披露して売ってはいけない客を回避する方がましだと考えています。
さて、こんな私ですが、あなたが継続を勧められるかどうか試してみるのも一興かもしれませんね。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)