<T008-06挨拶集(2) 

 

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<6>平成24年3月の挨拶 

<7>平成24年4月の挨拶 

<8>平成24年9月のご挨拶 

<9>平成24年10月のご挨拶 

<10>平成27年1月のご挨拶 

 

 

<6>平成24年3月の挨拶 

 これをお読みのあなたは、「問題を解決する」とか「悩みを解消する」「障碍を克服する」「病を治癒する」とかいうような言葉をお聞きになられて、どのようなことをイメージされるでしょうか。 

 最近、私は私がイメージするこれらの事柄とクライアントがイメージされていることの間には差異があるということに気づく機会に恵まれました。それをまずお話したいと思います。 

 カウンセリングを受けると何かが達成されると信じておられる方も多いようですが、実際はその反対なのであります。クライアントに何かが始まるのであります。カウンセリングはクライアントに、ゴールに導くのではなく、新たなスタートを切らせるものであると私は捉えております。変化とか変容とかいうもの、あるいは「治療」というものはそういうものなのであります。クライアントの中で何かが終了するだけではなく、同時に新しい何かが始まっていくことなのであります。到達よりも開始のイメージが私にはあるのです。そして、どうもこのことがクライアントには理解され難いようだと最近思うようになりました。 

 私はサルトルの人間観が好きであります。サルトルは「人間は未だあらぬものになり、もはやあらぬものになる」というような表現を繰り返ししています(『存在と無』より)が、人間の存在をそのようなものとして捉えているのであります。私はこれから私が達成していくであろう存在になっていき、今の存在はかつてあった私ということになり、このプロセスの流れを常に生きているものであると私は解釈しております。「私は私」という存在の在り方は、それはモノの在り方であって、人間の在り方ではないということなのであります。 

 私たちは変化しつつある存在であります。もしある人に変化・変容が感じられないとすれば、その理由は三つあると思います。 

 一つにはその変化が極めて小さいかゆっくりであるためです。もしくは、その人が自身に目を向けることがあまりに少なく、いかなる変化にも気づかずにいるかです。三つ目の可能性は、その人が「心の病」を抱えているかです。 

 「心の病」というものは、それがどのようなものであれ、それを体験している人の生を縮小し、停滞させるという傾向を有するものです。クライアントがそれを克服し始める時、クライアントの中で動き始めるものがあるのです。一方で、それは狭小であっても安定をもたらしていた世界から抜け出すことでもあるので、当人は少なからず動揺を体験されることもあり、苦しい思いもされるのであります。それでも、何かが動き始めた時、クライアントの中で何かが始まるのであります。 

 これをお読みのあなたはカウンセリングを通じて、どのようなあなたを生き始めることでしょう。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

<7>平成24年4月の挨拶 

 4月になりました。新生活を始める方も少なからずおられるでしょう。部分的に環境が変わるという方も多いでしょう。新しい人間関係を築くことになったり、環境の変化に適応しなければならなくなったりすることでしょう。 

 慣れることや耐えることも時には必要なことです。でも、耐えるばかりで、何一つそこに満足や意義が見いだせないとなると、たとえそれが耐えることのできる苦難であっても、苦しくなることは避けられないでしょう。 

 新生活や環境の変化から不調をきたしたというクライアントも少なからずおられますが、彼ら自身も何が苦しいのかよく分からないという訴えをなされるのです。仮に、これこれのことがしんどいというように訴えても、周囲からはなんでそれくらいのことが耐えられないのと言い返されるという体験を繰り返していることもあります。 

 大きな障害が明確に把握できるケースはむしろ幸運な方です。ごく小さな障害に慢性的に曝されているというようなケースは、その問題が不明瞭になったり、誤解されることも多く、当人により多くの困惑をもたらすものだと思います。 

 慢性的になるのは、それが耐えられる範囲内のものであったからです。額に水滴が一滴落ちたくらいは何ともないことです。しかし、絶え間なく水滴が額に垂らされ続けるとなると、その苦悩は一度に大水を浴びせかけられる以上の苦痛になるものなのです。慢性的に抱えてしまう人は、間違いなく、最初は耐えることができており、実際、耐えてられていることが多いのです。 

 しかし、矛盾があるとお考えになられた方もおられるでしょう。慢性的に苦悩している人は小さな忍耐を重ねていると言っておきながら、一方で耐えることも必要だと私が述べているからであります。 

私の考えでは、慢性的に抱えてしまう人の忍耐は正しい忍耐ではないということなのです。このような人の忍耐は、その小さな苦痛に耐えるために、他の全てを犠牲にしてしまう耐え方なのです。そこから何一つとして満足や意義を見いだせないでいるのです。 

本当にその人を苦しめているのはその部分だと思います。何のために、誰のために耐えるのかはっきりしないのです。いわば耐えるために耐えているというような人たちなのです。 

 これからそのような人たちをお会いすることも増えるでしょう。その人たちとともに、耐えるということ、状況と個人との関係などを考えていければと思っております。そして、その人たちと一緒に活路を切り開いていければと強く望んでおります。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

<8>平成24年9月のご挨拶 

 9月になりました。まだまだ厳しい暑さが続くことでしょう。これをお読みの皆様もその中で一日一日をしっかり生きておられることと思います。 

 さて、先日、ある男性クライアントと面接後に少し話をしたのですが、彼は人間がみな孤独であるということが信じられないと言うのです。彼もまた自己の孤独に悩む一人でありました。彼からすると、このような孤独は彼を含め一部の人だけが体験するもののように思われ、それ以外の人たちはこういう孤独の苦しみとは無縁な幸福を体験しているように見えるのでしょう。 

 彼から見るとそのように見えるということは理解できるのですが、私の個人的な見解では、やはり人間はすべて孤独なのだと思います。孤独といっても種類があるのですが、問題になるのは自己の空虚感として体験される孤独であります。望ましい孤独もあると私は考えますが、そうした区別はここでは脇に置いておきましょう。 

 現代の日本人はやはり皆孤独であります。どこかで孤独を体験しているのではないかと思うのです。ただ、孤独でないように見えるだけであったり、その孤独を適切に表現する手段を有していなかったり、孤独なのに孤独ではないと演じたりしていることが多いのではないかと私は思うのです。 

 ある人は際限のないお喋りやメールに従事します。他人のことや外側の事柄しかそこでは語られないのです。誰かと一緒に居ることは居るのですが、パーソナルな事柄には触れ合わない関係であったりします。 

 またある女性は、自分がいかに忙しい人間であるかを示すために、予定で真っ黒けになったメモ帳を見せてくれました。彼女は何の予定もない空白の時間が生じるのを必死になって避けようとしているようでした。なぜなら、予定がないということは、自分の孤独を体験せざるを得ないことになり、尚且つ、自分が誰からも必要とされていない人間ではないかという不安を体験せざるを得なくなるからです。 

 ある男性は、携帯電話に何百件というアドレスが登録されていることを自慢していました。彼にとって、これだけの人間とつながりがあるということは自慢に値することだったのです。彼はそれで自分がいかに孤立していない人間であるかを示したかったのかもしれません。このことは、彼が孤独を体験しているがために、自分は孤独ではないという確たる証拠を持ちたいということを示しているのかもしれません。 

 ある女性は、彼女のブログに何も返信がなかったということでひどく傷ついていました。 

 また、ある女性は、掲示板なんかに悩みを相談することが止められないでいました。回答がえられるかどうかは問題ではないのです。ただ、彼女の発信した事柄に対して、返答があるということが彼女の支えになっているようでした。 

 ある女性は、自分がいかに苦労してきたか、どれだけの痛みに耐えてきたかということを周囲の人にいつも話すのです。周囲の人はそれで彼女のことを煙たがるようになったのですが、彼女はただ誰かに労りの言葉をかけて欲しかっただけなのかもしれません。 

 ある女性は流行の音楽を聴き、話題の映画を観て、他の人たちも見ているドラマを欠かさず視聴していました。そういうことがしんどいと彼女は言いました。あることをやっていて、それがしんどく感じられるということは、それを好きでしているのではないということでもあるのでしょう。私がなぜそんな無理をしなければいけないのと尋ねると、彼女はそうしないと仲間についていけないからだと答えたのでした。言い換えれば、仲間外れになって、独りになってしまうことを彼女がどれだけ恐れているかを示しているのではないでしょうか。 

 まだまだ例を挙げることはできますがこれくらいにしておきましょう。ここに挙げた人たちは特別な人ではありません。それにクライアントでもありません。私はわざとクライアント以外で私が出会った人たちの例を挙げたのです。自分は「心の病」とは無縁だと信じている人たちの言葉なのです。 

 こういう人たちを見ても、私は人間がいかに孤独であるかを感じるのです。そしてその孤独を恐れ、その恐れが実現しないようにいかに必死になっているかも窺われるのです。そして、彼らが孤独を感じるのは、他の誰ともパーソナルな関係を築くことが困難だからであります。適切な自己表現を欠いていたり、不安があまりにも大きすぎて自己を語れなかったりするのです。そうして自分の恐れ、孤独をなんとかしてごまかそうとしているように私には思われるのです。恐れをごまかすことは時には必要なことかもしれませんが、その代り、彼らは誰とも親密になることができなかったりするのです。こうして、上辺だけの人間関係、なにもその人の中に蓄積されることのないような人間関係にしがみついている人たちがどれほどいることでしょう。 

 カウンセリングがクライアントのそのような領域に関わることも多いのです。大半のクライアントがそうであると言ってもいいでしょう。適切に自己表現でき、望ましい関係を築き、お互いのパーソナルな部分でつながりあうような関係、私もまたそれらを達成することを目指しておりますし、まだまだ模索の日々が続きそうです。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

<9>平成24年10月のご挨拶 

 そこには初めは自然があったはずです。自然は自然の秩序があります。そこに人間が住みつき、人間の秩序を持ち込みます。都市はそこに持ち込まれた人間の秩序であります。計画的に区画整備され、秩序立づけられた都市は一つの人工美でもあると私は思います。 

 都市に秩序があるとは言え、そこに住む我々は秩序的に出会いと別れを経験することはありません。一人の人間と出会うためには数多くの偶然が重ならなければならないのです。 

 まず、私という人間が生まれていなければなりません。私という存在が生まれたのは偶然であります。私の原点だった精子は、他の一億個とも言われる多数の競争相手に先立って着卵したのです。ゴール直前で二番目の精子に追い抜かれていたとしたら、恐らく、もっと違った存在がこの世に誕生していたことでしょう。私が存在しているのは、わずかの偶然に左右されたものではないかと思うのです。 

 出会うためには、同じようにあなたも生まれていなければなりません。あなたという人間が存在していなければならないのです。 

 さらに、単にお互いが生まれただけではまだ不十分です。同時代に、同国の近隣にお互いがいなければなりません。さらに言えば、私の両親が出会っていること、あなたの両親も出会っていること、お互い移動しあう中で、偶然にも近い位置にいることなども関与してくるでしょう。 

 このように考えると、一人の人間と一人の人間とが出会うということは、奇跡のような出来事ではないかと思うのです。天文学的な確立で出会うのではないかとさえ、私は思うのです。 

 私が他者と出会う。この他者は都市においてすれ違う群衆のような存在ではありません。無名のその他大勢ではないのです。私は自分が存在していることを知っています。現に私がここにいることから、私は私の実存を体験することができます。しかし、私は常に誰かによって私の存在が承認される存在であります。この時、私は他者を必要とし、他者との出会いを強く希求することになるのです。このことは私だけでなく、あなたにも、他の人たちにも該当することであります。 

 私という人間が承認され、私という人格を規定される時、その他者は私にとって意味のある他者になるのです。私は一人の人間として確かに存在しています。しかし、私が私という人間として在るためには、私を規定する多くの他者を必要とするのです。こうして、人は人との意味ある出会いを求めるのではないでしょうか。自分自身を認識し、自分自身を形成していくために。 

 人間関係とは、お互いに双方のアイデンティティを形成していく関係のことだと思います。その関係の原点に出会いという人間的な現象があるのです。人間的な現象と述べたのは、これは機械的に秩序付けて実現できる現象ではないという意味を込めています。 

 私もまたあなたと出会えることを望んでいます。意味のある出会いとなるかならないか、お互いに意味のある他者になるかならないか、私たちは双方が模索していかなければならないことでしょう。 

 私もまた、一人の意味のある存在になるべく、試行錯誤している一人です。これを読んでいるあなたとも出会える日がいつか来ると信じて、今日を生きていこうと思います。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

<10>平成27年1月のご挨拶 

 謹賀新年 

 無事に新年を迎えることができたのを嬉しく思います。本年も皆様方が良くしていく一年になればと心から願います。私もまた私自身を良くしていくことを目指すつもりでいます。 

 年を重ねるにつれて新年を迎えることの喜びが増してきているように実感しています。振り返ってみると、子供のころや若いころは年が明けるということがどこか当たり前のことのように感じられていたのを覚えています。「ああ、またこの日が来たか」くらいな感覚でした。 

 でも、当たり前のことなど本当は何もないのだということが分かってくるにつれて、無事に一年を過ごすことができるか、来年も同じように迎えることができるかどうかは、実はそれほど確定しているわけでもないと理解できるようになってくるにつれて、新年を迎えることの喜びと重みが感じられるようになってきたのでした。 

 私たちは誰も将来のことが分からないのです。先行きが不透明な中で不安に襲われながら、私たちは生きづらい日々を送り、時折訪れる行事に生の喜びを実感したり、今年も無事にこの日を迎えることができたと安堵するのではなでしょうか。生きるということはそういうことなのだと思います。 

 さて、今年がどんな一年になるかいろいろ予想されていたりもします。案の定、あまり明るい予想を耳にしません。経済的な不況、世界情勢の悪化、環境の脅威、貧富の差、犯罪増加などなど、好ましい予想を僕は一つも耳にしませんでした。本当に生きづらい世の中だとつくづく思います。 

 ただ、一つの時代に生きる人は誰もその時代から逃れることはできず、好むと好まざるとに関わらず、その時代に関わらざるを得ないのです。傍観者でいることは許されないと言ってもいいかもしれません。 

 時代や社会、あるいは政治や経済は、それ自体大切な領域ではあるけれど、人間の幸不幸を最終的に決定するものではないと私は考えています。私自身を良くしていく、私の人生や生活を良くしていくのは、すべて私にかかっている事柄であり、政治や経済、社会は二次的にそこに関与しているだけだと信じています。 

 厳しい状況の中で、お互いに自己を向上し合えるようになればと、心からそう願うのです。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

  

 

 

 

 

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