コラム9~『息の喪失』を読む(4)~補足集 (約3400字)

 

(補足1)

 精神的に圧倒されて、人間社会から疎外されてしまうと、言葉の共有されている意味が失われて、意味よりも字面が前面に出てしまうということですが、このことはとても奇異なことのように思われるかもしれません。しかしながら、臨床の現場ではこういうことを頻繁に目の当たりにするのであります。

 どの本で読んだのかすっかり忘れてしまいましたが、ある精神科医が次のような体験をしたと言います。その精神科医が、彼のオフィスで仕事をしていると、ドアにノックがありました。誰か来たのかと思ってドアを開けますと、そこには誰もいませんでした。翌日にも同じことが起こりました。そして、そのようなことが数日間続いたそうであります。

 実は、そのドアには「ノックしてください」と書かれた札が掛けられていたのでした。そこで、ある患者さんが、そのドアの前を通るたびにノックしていたのだということが分かったそうであります。

 通常、私たちが「ノックしてください」と書かれているのを見れば、それは「中へ入る用のある人は、ドアを開ける前にまずノックをしてください」という意味であることを了解しています。そして、こういう意味が共有されているからこそ、「ノックしてください」と書くだけで間に合うわけであります。

 この患者さんにとっては、「ノックしてください」と書いてあるから、ノックしただけだということに、もしくはそう書いてあるからノックしなければならないと考えたのであります。このことは、この患者さんが共有されている意味の世界に生きておらず、字面の世界に生きているということを意味するものと思われます。従って、私たちが共有している意味を彼は既に失っていたということがわかるのであります。

 私自身の例を挙げますと、あるクライアントに、例えば「10時に来てください」と約束します。当日、私が室内で待っていますと、10時前に表に人影が見えました。予約していたその人が来たのだと思いましたが、その人はなかなか中へ入ってこようとはしませんでした。しばらくして、ノックがあり、私はその人を室内へ招き入れました。そして、「早くから来て、表で待ってらしたのではありませんか」と尋ねると、その人は「10時からということだったので、10時ちょうどになるまで待っていたのです」と説明しました。しかも、10時ちょうどに入るために、彼は自分の時計をわざわざ時報で正確に合わせてきたのだと語りました。

 このクライアントにとって、「10時に来い」と言われたからには10時ちょうどでなければならず、9時59分でも10時1分でもダメだったのであります。言われた通りのこと、字面通りのことに従って行動してしまうということは、融通性がなくなり、強迫的で完全主義の傾向が強まっていくことであり、それはその人の心から自由が失われているということでもあります。

 

 

(補足2)

 主人公が失った息を探す時に見つけたいくつかの小道具なのですが、それらは主人公の内面の何かを表しているのではないかと私は読んでいきました。

 文学が好きだという知人やクライアントと文学の話をすると、ポーという作家は非常に好き嫌いが明確に別れる作家であるという印象を覚えます。ポーが苦手だという人たちは、たいていポーは分かりにくいというようなことを述べます。確かにそういう面もあるかと思います。

 ポーの作品を理解するためには、ここに挙げた小道具などの他に、情景描写や、作中人物によって詠まれる詩や、引用される詩句、さらには固有名詞などに注目するとよいでしょう。これはポーを読む時のポイントであると、私は捉えております。

 例えば、情景描写の最も優れた一例は「アッシャー家の崩壊」の冒頭部分を挙げることができるでしょう。この作品は、まずアッシャー家の外観の描写から始まるのですが、それによって読者の感情を掻き立て、物語世界に引き込み、作品の雰囲気を強烈に印象付けるようであります。そして、主人公がこれから入って行く世界にみなぎっている感情を如実に伝えてきているようであります。つまり、情景描写は、単なる場面の描写以上に、優れた感情表現であり、物語世界の雰囲気を伝えるのであります。

 こうした情景描写は、私の知っている範囲では、エミール・ゾラのそれとは極めて対照的であります。ゾラによる情景描写は非常に詳細であり、あたかもその現場に居合わせているかのように記述してくれています。同じく文学好きの人が「ゾラはわかりやすい」と評していましたが、私はそれは頷けるように思いました。

 詩や詩句に注目することも同じようにポイントであります。作中人物は、「私はもうダメだ」と嘆く代わりに、非常に絶望的な詩を詠み上げます。救いようのない世界を描いた詩を詠んだりします。読者は、こうした詩から、作中人物の心情を読みとり、彼が生きている世界がどのようなものであるかを感じ取る必要があります。ポーの作品においては、詩もまた感情表現なのであり、作中人物の内面を表現しているのであります。

 もし、ポーの作品をこれから読んでみようと思われる方がおられましたら、作中の情景描写、小道具、固有名詞、引用される詩などを、読みとばしてしまわないようにすることをお勧めします。もっとも、そのような読み方をしなくても、ポーの物語はそれ自体面白いものなのですが。

 

 

(補足3)

 マリー・ボナパルトという精神分析家がポーの作品を分析しているのですが、ボナパルトもまたこの「息の喪失」を取り上げています。私の勉強不足できちんと読んだことはないのですが、ボナパルトは作中で用いられる‘ejaculate’という単語に注目しているそうであります。この単語は「発声する」という意味の他に「射精する」という意味もあります。従って、主人公が突然ejaculateできなくなったということは、彼が射精できなくなったということ、つまり、主人公が性的不能に陥ったのだと解釈しているようであります。とても精神分析家らしい理解の仕方であると、私は思います。

 そのように捉えると、主人公が恋敵と容姿の比較をしている箇所も、なんだか男性器を比較しているように読めて面白く感じます。

 ただし、私はこの作品をそれほど性的な要素が強い作品であると受け止めることができませんでした。後の「名士の群れ」などの方がはるかに性的な内容を含んでいるように思います。従って、ボナパルトの解釈は一応は理解できるとしても、同作全体の流れから見ると、若干無理があるように私には思われます。

 

 

(補足4)

 ここで共同墓地の描写が出てくるのはいかにもポーらしいと思います。ポーはとにかく「死」を描くことに執着しているところがありまして、エーリック・フロムの言う「死のオリエンテーション」を抱えている作家であることがわかります。

 「オリエンテーション」とは、その人の行動や関心の方向づけといった意味で、しばしば「構え」と訳されています。「生」の方向とは反対の「死」の方向に強く惹かれるということであります。この「死」の中には、死体であるとか、破壊や暴力なども含まれ、廃墟とか老廃物や排泄物なども含んでおり、そうしたものに強く惹かれてしまう人を、「死のオリエンテーション」を抱えている人としてフロムは括っています。

 死を描写することに関しては、ポーの「モルグ街の殺人事件」はその代表ではないかと思います。世界で最初の推理小説といわれる同作は、まず、パリのアパートの一室で二人の女性が惨殺されるという事件が発生します。その時に、ポーは、この新聞ではこのように報じているとか、目撃者はこのように証言しているといった形で、繰り返し、執拗なほど、この惨殺事件の現場を描写しています。私はいつもこの個所に差し掛かると、読むのを止めたくなる気持ちに襲われるのであります。そんなに繰り返し描写する必要はないように思うのです。しかし、ポーは死体を描くことに並々ならぬ執着を持って、繰り返し読者の前に提示していくのであります。まるでそれを書かざるを得ないかのようにであります。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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