コラム8~「一人で悩まないで」考 (約3400字)
これまで、何度か広告会社に広告を作ってもらった経験があるのですが、彼らは決まって「一人で悩まないで」といった文章を載せようとするのであります。私にとっては、それは困ったもので、広告会社の人にはもっと想像力を働かせてほしいものだといつも思うのであります。
さて、この「一人で悩まないで」という文句ですが、私にはとても問題の多い文句であるように思われるのであります。
まず、この文章の何が拙いのかと申しますと、これが「~しないで」という禁止の文句になっていることであります。しかも、音声の伴わない文章なので、これが「~しないでほしい」という依頼のニュアンスなのか、「~するな」という命令のニュアンスなのかが不明確なのであります。
従って、「一人で悩まないで」という文章は、否定の命令で、しかも禁止の意味合いが濃いということであります。そのように捉えると、とてもきつい文章、厳しいメッセージを伝えているように、私には思われてならないのであります。これなら、まだ「一人で悩んでいませんか?」などの方がましであります。
ところで、人は一人で悩んではいけないのでしょうか。一人で悩むということは、それほど禁じられなければならないことなのでしょうか。私はそうは思いません。それに、クライアントというのは、必ずと言っていいほど、最初は一人で悩むものであります。
広告会社の人は、クライアントが内気であるからとか、勇気がないからとか、恥ずかしがっているからといった理由のために一人で悩んでしまうのだというように捉えているのではないかと思います。しかし、実際はそうではなくて、一人で悩むというその行為そのものが、クライアントの問題の何かを反映しているものであります。つまり、クライアントは自分の抱える問題の一環として、その一つの現れとして、一人で悩むということをしてしまうのであります。広告会社の人は、専門家でないから仕方がないのですが、そのような発想をしていないのであります。
以下、クライアントが一人で悩み、問題を一人で抱えてしまう幾つかの理由、背景を述べていくことにします。もちろん、これは私の個人的見解であるということを、初めにお断りしておきます。
(A)異常意識に襲われている。
異常意識というのは、「自分に理解できないこと、あり得ないようなことが起きている」という意識のことであります。この意識に囚われてしまうと、自分の問題をそう簡単には人に話せなくなってしまうものであります。ちょうど『息の喪失』の主人公が体験したことのように、その人はそれを一人で抱え、自分一人の秘密にしておかなければならなくなってしまうのであります。そのために、その人は一人で悩まざるを得なくなってしまうのであります。
(B)傷つきと不信感
実は、クライアントはカウンセリングに訪れる前に、何らかの形で自分の悩みを誰かに相談するという経験をしていることが多いのであります。それは家族だったり、上司や教師だったり、占い師だったりするのであります。その時にひどく傷ついたという体験をしてしまって、そのために相談相手のことを信頼できないというようなことが時々起こるのであります。そうなると、次はそう簡単には人に相談しようとはしなくなるのであります。そして、一人で悩まざるを得なくなるわけであります。
(C)相談するということがその人の何かを損ねてしまう。
誰かに自分のことを相談するということが、その人の内面の何かを損ねてしまうように体験してしまう人もあります。多くは敗北感のような感情でありまして、他人に相談することが自分自身に対する敗北をもたらすかのように思いこんでいるのであります。このような人は少々「自己愛」の強い人であり、「万能感」に支配されている人ほどこのことがより多く確認されるように思います。
自分のことはすべて自分で何とかしなければならない、且つ、それができると信じている人は、自分が万能であるという感覚を持ち合わしているということであります。だから自分が他人に依存したり依頼したりといったことをすると、自分の万能な自己像が脅かされるような体験となってしまうのであります。このような人は誰かに相談するという行為そのものが、彼を傷つけてしまうのであります。従って、彼は一人で悩まなくてはならなくなるのであります。
(D)カウンセリングを「処罰」の場と捉えてしまう
これはカウンセリングを受けることに関しての恐れがある人たちのことでありまして、その恐れは「処罰される」という色彩が濃いものであります。
現実にカウンセリングを受けに来られた方でも、「今日はカウンセラーからどんなことを言われるのかと思ってビクビクしていました」とおっしゃられる方もあります。詳しく尋ねていきますと、その「どんなこと」の内容が、例えば自分の弱点を突っ込まれるのではないかとか、自分の間違いを責められるのではないか、といった内容であることが明確になるのです。私が「あなたは私から責められてしまうのではないかと心配だったのですね」と述べますと、「確かにその通りだった」と彼は納得されるのであります。まるで、叱られるということが火を見るよりも明らかなのに、それでも先生の所へ行かなくてはならない子供のようであります。しかし、振り返ってみると、彼が恐れていたようなことが起きていないということが、私にも彼にもはっきり分かるのであります。そして、それはとても不自然な恐れであったということが納得できるのであります。
相談するということに恐れがある人は、必然的に一人で悩まざるを得なくなるわけであります。処罰されることへの恐れがある人は、その他の面においても処罰される恐れを抱く傾向があり、その人の抱えている問題ともそれが密接に関わっているものであります。
(E)決断ができない人
これは相談するかどうかが決められない人のことであります。決断ができないのであります。確かに、それが重要であればあるほど、もしくは、それが自分のプライバシーに関わっていればいるほど、決断をするのが難しくなるという傾向が人間にはあると思います。しかし、それだけではないという人もおられます。
自分の何かを決断するためには、その人の中にしっかりとした自分の「核」のようなものが育っていなければなりません。私は「核」という言葉を用いるのですが、人によっては「自己」という言葉を用いておられます。言葉の違いはどうあれ、述べていることに違いはありません。その「核」が弱いために、その人はいかなる決断も回避しなければならなくなってしまうのであります。
決断ができない人は、やはり必然的に一人で悩みを抱えてしまわざるを得ないわけであります。広告会社の人がイメージするのはこのような人たちではないかと私は捉えています。と言うのは、「一人で悩まないで」という文章は、決断ができない人に対して決断を促すようなメッセージを伝えていることになるからであります。しかしながら、決断ができないということがどういうことなのかを広告会社の人たちはイメージしていないようであります。決断とは、何かをするということを決断するのではなくて、何かをすると決断することを決断するのだ、そのようなことをキルケゴールだったかが述べていたように記憶するのですが、決断できない人には決断以前のものが問題になっているかもしれないという発想がないのであります。
人が一人で悩みを抱えてしまう背景にはもっとさまざまなものがあることでしょう。分量の関係もあり、ここではこれ以上取り上げないことにします。
広告会社の人たちに文句をつけるつもりはありませんし、「じゃあ、どういうことを書けばいいのだ」と問われると、私もいい案が浮かばないので困っているのであります。
少なくとも言えることは、「一人で悩まないで」という言葉が、いかに悩みを抱えている人の心情にそぐわないものであるかということであります。この言葉は、真剣に悩みを抱えている人にとっては、とても薄っぺらな言葉として響くのではないかと私は思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)