コラム7~『息の喪失』(E・A・ポー)を読む(3) (約3000字)

 

 テキストにしているのは文学作品でありますので、現実の人間の事例ではないということは前回お断りしておきました。本作、「息の喪失」は、文学作品の鑑賞という観点から見るならば、搾取する側と搾取された側の対決であるとか、もっと社会批判や風刺であるという読み方も可能であります。また、作品の構成や文体、言葉使いなどから研究することも可能ではあります。ですが、私がここで試みているのは文学作品の鑑賞や分析ではありません。そういうことを目的として書いているのではありません。あくまでもフィクションではあるけれども、一応現実の人間の体験として捉え、主人公が現実に私の目の前でこういう一連の体験を語っているものと想定して考察しているのであり、その上で、私だったらどのようにその語りを理解するだろうかということを論じているのであります。

 では、物語を続けましょう。

 

 

(F)さらに災難は続く

 外科医の手術のおかげで体が動かせるようになった主人公は、屋根裏部屋から脱走します。しかし、主人公が降り立った所に、ちょうど刑場に連行されている死刑囚がいました。なぜかこの死刑囚は主人公と瓜二つだったので、死刑囚は彼を身代わりにして逃走してしまいます。そして、死刑囚の代わりに、彼が絞首台へと連行されてしまいます。

 絞首台にかけられた彼は、集まった人々の曝しものとなります。死刑は実行されましたが、もともと生きているのでも死んでいるのでもないという存在の主人公は、ここでも死んでしまうということはありませんでした。

 死刑が実行された直後に逃走した死刑囚、つまり絞首台にかけられるべき本来の人物が捕まります。群衆は無関係の人間を絞首台にかけてしまったということを知り、主人公に同情を示します。彼の死体(本当は生きている)の引き取り手がないために、彼は共同墓地に収められることになります。

 

 主人公はもはや自分が何者であるかを証明することもできず、そのような機会も与えられず、誰も彼を弁護する人がいないといった状況に追いやられているように感じられます。弁解も弁護もできず、彼は死刑囚とみなされて、死刑されてしまっています。彼の言い分に耳を傾けようとする人は誰もおらず、彼は孤立していて、一人の味方も理解者も得られないでいます。疎外された人が経験することは、まさにこのようなものであろうと私は思います。

 主人公と死刑囚が瓜二つであったということに関しては疑問もあります。しかし、「誰でもない」主人公は、もはや個性も人格も持たず、どのような人間にもみなされてしまう存在へと陥っているのだと考えることができます。「誰でもない」ということは、彼には個別性がなく、誰にでもなり得る(みなされ得る)存在だったのかもしれません。

 人々は、自分たちが罪のない人間を死刑にしてしまったのではないかと、一時的にですが、彼に同情を示します。ところが、彼を引き取ろうとする人はありませんでした。そして、共同墓地へと納められてしまうのですが、ここでの人々の態度は「彼に同情はするけれど、関わりは持ちたくない」と述べているように、私には感じられたのでした。この態度は、精神病や障害者に対する人々の態度にも通じるものがあると思うのであります。

 

 

(G)共同墓地内での邂逅

 共同墓地に納められた主人公は、棺桶の中から抜け出し、戯れにそこに収められている死体を見て回っては(補足4)、揶揄します。そこに見覚えのある顔を発見した主人公は、その死体に向かって罵ります。すると、死んでいると思われていたその死体が「あんまりだ」と言って、主人公に向かってきます。その人物こそ、主人公の妻と関係があった「息倉氏」本人だったのです。「息倉氏」と対決することによって、主人公は息を取り戻したのでした。

 

 揶揄するという言葉で私が表現した部分ですが、墓地なのでたくさんの棺桶が納められているのであります。それを開けて中に納められている死体を見ては、主人公が「この顔の男だったら、生前は悪さばっかりして、ろくな死に方をしなかっただろう」などと辛辣に評価しているのであります。

 読者はここで「おや」と思うのであります。確か主人公は息を失って、声が出なくて、話すことができなかったはずなのに、ここではとても饒舌に言葉を発しているではないかと、矛盾があるじゃないかと気づくのであります。これがどういうことなのかと言うと、私の見解では、主人公は「生者」の世界にいる時には「死者」とみなされ、「死者」の世界においては「生者」のように振る舞うことができているということであります。そのように逆転しているわけであります。このことは、つまり、彼が「生者」の世界にも「死者」の世界にも居場所がないということを表わしているように受け取りました。もともと生きているのでも死んでいるのでもない主人公にとっては、「生者」の世界に属することも、「死者」の世界に属することもできないのであります。そして、その両方の世界から彼が疎外されているのだということが、こうした逆転から汲み取れるように思うのであります。

 主人公は妻に決定的な罵りの言葉を浴びせようとする矢先に息を喪失したのでしたが、「息倉氏」の方は、「息をのんで」しまって、いきなり息が倍になったと言います。「息倉氏」がどのような経過を経てこの共同墓地にいれられることになったのかは明らかではありませんが、息を喪失した者も過剰になった者も、等しく人間社会から脱落して、「死者」として生きたまま墓地に納められてしまったことが窺えるのであります。

 主人公は、ここで仇敵「息倉氏」と対決することで息を取り戻し、「息倉氏」の方も倍になった息を返すことで、二人とも生者として墓地を出ることができたのでした。直面すべき対象と直面できたということが、両者の問題を解放したのであります。

 

 これで物語は終了であります。前に述べたように、物語を通して主人公を理解する試みでありました。ここで言う理解とは、主人公がどのような体験をし、その体験は彼にとってどのような意味があるだろうかを考え、その体験が彼にどのような変化をもたらしているかということを見ていくことでありました。

 その流れを最後に振り返っておきます。

 彼は、最初に異常で「あり得ない」出来事が自分に降りかかったことを体験しました。彼は元に戻ろうとしましたが、その目的は達成されませんでした。彼は自分の状態を受け入れていきます。それは、異常で「あり得ない」ことが自分に起きているという段階から、異常で「あり得ない」人間になってしまったということを意味しました。異常な状態に同一視した彼が体験したことは、疎外以外の何物でもありませんでした。孤立し、生者として扱われず、さまざまな災難に見舞われるようになってしまいました。彼は死んだ者として葬られ、そこで宿敵と再会し、対決することで、彼は元の自分を取り戻していったのであります。

 

 この作品を選んだのは、もちろんこの作品が好きだからでありますが、それに加えて、この物語が「心を病む」人の体験をよく描いているように思うからであります。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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