コラム5~「先生はどんな人ですか」 (約3400字)
「先生はどんな人ですか」「どういう人がされているのですか」
時々、このような問い合わせをされる方がおられて、私は非常に困惑するのです。まず、こうした問いは、問いの内容があまりにも漠然過ぎるのであります。私の何を知りたいと思っているのか、私の経歴なのか、専門なのか、依って立つ学問的立場なのか、あるいは私の性格や思考様式なのか、また、そういうことを知ってどうするつもりなのかといったことが私にはまったく見えてこないのであります。だから、どうにも答えようがないのであります。
私がどんな人間であるか、それは私自身知りたいと思っています。
私がどんな人間なのかということは、おそらく私が生涯を通じて追及していくことになるテーマであります。従って、私がどのような人間であるかということを、現時点で述べることは不可能であります。私はそれをあなたに伝える言葉を知りません。私は自分がどんな人間であるかを自ら主張することはできません。また、私がどんな人間であるかということは、私の周囲の人たちによって決まってくるという部分もあることでしょう。
私がどんな人間かと問われれば、私は「ごく普通の一人の人間です」とでも答えるでしょう。この「一人の人間である」という点はとても重要なことであると私は捉えております。私が「一人の人間」であるということは、私が「神」でも「救世主」でもないということを明言しているのでもあります。
臨床家にしろ、医師や弁護士にしろ、あるいは福祉関係の職に就いている人たち、つまり人を援助する仕事をしている人は、自分が一人の人間であるということを特に忘れてはならないと、私は考えております。私も経験があるのですが、人を援助する仕事は、人から頼られ、ありがたがれ、尊敬されることもあれば、感謝されることもありまして、そういう体験を積むと、自分が一廉の人間であるかのような錯覚を起こすのです。自分がとても有能で、素晴らしい人間であるかのように思えてくるのであります。もし、私が「一人の人間である」ということを忘れてしまったとしたら、私は錯覚の方の自分を生きることになるのであります。
時にクライアントは、臨床家に「神」がかりなものを求めてきます。臨床家がクライアントの期待に応えてしまって、本当に「神」になってしまうような人もあります。自分が「一人の人間である」ということを、この臨床家は見失っているのであります。
私の知っているカウンセラーにもそういう傾向の強い人がありました。その人は「万能感」に支配されていました。たくさんのクライアントに対して、あたかも「私が治してあげました」と言わんばかりの人でした。そのような感覚に陥ると、「私だけが優れて」おり、心を病む人は「私が治してあげなければいけない、劣った人たち」という立場として捉えられてしまうことでしょう。これこそ「神」と同一視している人の感覚ではないだろうかと思います。
しかし、私はこういう心理は「思い上がり」でしかないと捉えています。思い上がりというのは、その名の通り、思いだけが上に到達しているのであります。頂上に達していないのに、頂上に到達したと思い込んでいるのであります。
自分が一人の人間であるということを忘れて、他人を援助しようとしている人たちには、こういう思い上がりのような心理が共通して見られるように、私には思われるのであります。
ところで、数か月前、私は一人の女性のクライアントを失いました。最後の面接の際に、彼女は冊子のようなパンフレットを私に差し出しました。そこには「あらゆる病を癒すパワーを身に付けた」というような人が紹介されていました。彼女はその人の治療をうけるつもりだと言いました。それで、私とのカウンセリングも今回限りにするということを彼女は述べたのであります。
「あなたにもその冊子を差し上げるからよく読むように」と彼女は言いました。彼女は「私が治らないのはあなたのせいです」と言わんばかりの態度で、私にそれを差し出したのです。私はそれを拒否することもできました。しかし、拒否するとこの人は手に負えなくなるということも分かっていましたので、取り敢えずは手に取り、パラパラとページを繰って、それ以上は読みませんでした。私の最初の感想は、「実にくだらない」というものでしたが、彼女はその「素晴らしい人」を見習ってくださいと私に言いました。私は「それは私が決めることで、あなたが決めることではありませんよね」と返しましたが、案の定、彼女は激しく怒って、部屋から出ていきました。彼女の好きにすればいいと、私もその時は感じていました。そして、どこか彼女に呆れていたのであります。なぜなら、彼女は以前にもそういう「素晴らしい人」の治療を受けており、それでひどい状態に陥った過去があったにも関わらず、再び同じことをしようとしているからでした。
今回、こういうことを書きたくなったのも、その女性クライアントの件があったからでした。不思議な「パワー」や「エネルギー」や「気」を発見し、身につけ、それによってあらゆる病気が治せるなどと言う人は、私には自己愛の病理を抱えている人のように思われます。
自分がそのようなエネルギーを発見したと彼らは主張するのでありますが、もしそのようなエネルギーが本当にあるとして、既に誰かがそれを発見しているかもしれないという発想をこの人たちはしていないのであります。人間に関しては、そんなに新発見の事柄がそうそう出てくることはないだろうと私は考えておりますので、もし、そのような素晴らしいパワーが存在するなら、既に発見されており、活用されていなければおかしいと思うのであります。
また、そのようなエネルギーによって人を癒しているなどと彼らは述べるのであります。病気を治すのはあくまでも「自分」であり「自分の力」であって、病者は「自分」の力を必要としている無力な存在とでもみなしているかのようであります。これもまた、思い上がりであります。
私は極めて現実的であり、かつ平々凡々な一人の人間でありますので、彼らのような素晴らしいパワーなど持ち合わせてはおりません。彼らは、なるほど、確かに素晴らしいパワーを身につけているのかもしれません。しかし、優れたパワーを有しているからといって、その人が人間として優れているということの証明にはなりません。ここは勘違いしてはいけないところであると、私は考えております。その女性クライアントは、私にこの人を見習ってくださいということを辛辣な口調で伝えてきたのですが、私はこの人を見習うつもりなどまったくありませんでした。私が追い求めているものが、基本的にこの人とは違うのであります。彼はパワーを身につけ、それで他人を癒してあげているのだということに価値を置いているようでしたが、私はあくまでも一人の人間となることを目指しているのでありまして、見習おうにも、彼とはまったく違った世界に生きているのであります。
素晴らしいパワーを身に付けた「治療者」にとって、「患者」が「病」と格闘してきた歴史など眼中にないのでしょう。「患者」が自分の病を克服するために払った努力など無視しているようにしか私には思えないのであります。彼からすると、「私と出会わなかったばかりに患者は苦しんできたのだ」ということになるでしょう。彼は万病を癒す「救世主」のような「癒し手」であり、「患者」は彼のパワーを知らなかったばかりに苦しんできた無知で無力な人となるでしょう。「患者」は彼に平伏し、彼のパワーを請い願う哀れな存在として自己を体験することになるかもしれません。しかし、そんなことは彼にはどうでもいいことなのでしょうけれど。
もし、私がこの先、何かそういうパワーを発見し、身につけ、それによってどんな人でも治してみせるなどと豪語するようになったとしたら、迷わず精神病院に入るつもりでおります。もし、そうなったとしたら、そこで一生を終えても構わないと考えております。もし、あらゆる病気を私のパワーで治してあげるなどと、私が真剣に取り組むようになったとしたら、私という人間など、初めからこの世に生まれてこなかった方が良かったのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)