コラム12~理解の三段階 (約2700字)

 

 もしピアノという楽器を知らない人に対して、ピアノを理解してもらおうとするならば、あなたならどうするでしょうか。

 それには三つの方法があると私は考えております。

 

まず、ピアノの構造を説明し、どのようなメカニズムで音を出すかを説明するやり方であります。また、ピアノの形態を図説したり、ピアノの歴史を講義することによっても、相手には何らかのピアノの理解がもたらされることでしょう。つまり、言葉によって、概念的に説明する方法であります。

 

 次に、映像や演奏を視聴してもらうことでその人にピアノを知ってもらうという方法があります。これは現実に見ることになるので、こちら説明は不要なうえ、その人にとっても言葉を重ねられるよりかはずっと理解しやすい方法でありましょう。これは現実に見てもらう、例示するという方法であります。

 

 最後に、実際にその人をピアノの前に座らせて、彼に音を出してもらうという方法があります。これは実際に体験して理解する方法であります。

 

 何かを理解するという場合、このような三つの段階、方法があると私は考えているのです。何かを理解するためにはどの段階も必要でありますが、特に三つ目の段階は本当にそれを理解するうえで不可欠なものであります。「分かる」という場合、実際にそれを体験するということが絶対に必要になってくるのであります。

 私も趣味でピアノを弾きます。それはキーボードと電子ピアノなのですが、時間がある時などに弾きます。私の腕前はというと、何の曲を演奏しているのかは演奏している当人にしか分からないという程度であります。

 そのような私ですが、ある時、偶然にも本物のピアノを触る機会がありました。本物のピアノはもっと繊細な力加減が要求される楽器であり、音にはもっと深さと透明感があり、心地よい余韻をもたらす楽器であることを、私は初めて知りました。それはこれまで私が弾いていたようなものとはまったく違う楽器なのだということを実感しました。つまり、本物のピアノに触れるまで、私はピアノを知らなかったのであります。その代替物を通して知っていると思い込んでいただけなのでありました。現実に体験したことによって、私は初めてピアノを理解したのでした。

 

 あなたは問いたくなるかもしれません。「それじゃあ、フランスを知るためにはフランスで生活しなければならないということなのか」と。

 私は「そうです」と答えます。私たちはフランスという国について、その地理や歴史、言葉を学ぶことはできます。しかし、それはフランスという国を知ったということには、本当の意味で知ったということにはならないのであります。

 私たちが学校で学ぶことは、そのほとんどが一つ目か二つ目の段階で終わるのであります。そして、人間が一生の間に体験できる事柄にも限界があります。従って、私たちはこの世のことを、ほとんど何も本当には理解せずに一生を終えてしまうのであります。私はそう考えております。

 あるテレビのクイズ番組で、回答者がとても難しい漢字の読み方を答えて周囲から称賛されている場面を見たことがありますが、なんと無意味な知識であるかと、私は呆れたことがあります。その回答者は「物知り」ということになるのでしょうが、実は人間が一生の間で本当に理解できることはごく限られたものにしか過ぎず、「物知り」も「物不知り」もそんなに違いはないものだと思います。

 

 どうしてこのようなことを述べているのかと言いますと、カウンセリングを知らない人に、私のカウンセリングをどうやってわかってもらうかということに随分悩んでいるからであります。

 カウンセリングとは、基本的に二人の人間のやりとりであります。このやりとりを双方が意味のあるものとして体験しているのであります。しかし、どうやってそのことを伝えればいいのか、私はいつも暗中模索しているような気分であります。

 カウンセリングの場面を実際に公開して見てもらう(第二段階目の方法)としても、やはり、そこには伝えられないものがあるのです。

 仮に、次のようなやりとりを見てみましょう。Cはクライアントで、Tはカウンセラー(セラピストのT)であります。実際の面接場面でなされた会話を基に、クライアントが特定できないよう脚色を若干加えてあります。

 

C「今日、電車に乗っていると、また、気分が」

T「また、不安になって」

C「気が遠くなるような、息が詰まる感じで」

T「だから、何とかしなくちゃと慌てて息を吸いこもうとしたのね」

C「それで苦しくなっちゃって」

T「心臓もドキドキして」

C「それで倒れそうになったけれど」

T「なんとか踏みとどまって」

C「途中の駅で降りて、トイレに駆け込んで」

T「一息ついて」

C「それで今日、ここまで来たんです」

 

 このクライアントは不安がとても強い女性でした。実際にこういうやりとりがあったのですが、このやりとりは第三者には何の意味も感じられないことだろうと思います。

 見た限りでは、クライアントが体験したことを単に描写しているように見えるのですが、よく見ると、二人で一つの文章、状況描写を作っているということが分かります。この時、おそらく、クライアントは一体感を感じているはずであり、支えられているという体験をしているものと推測できるのであります。私自身、この時は波長が合っているという感覚を実感しておりました。彼女は、一人で苦手な電車に乗ってここまで来たのですが、このやりとりをしている時、彼女は一人ではなくなっているわけであります。この体験が、現実に彼女の安心感を回復させていったのであります。

 このやりとりは、第三者から見ると何の意味もありませんが、この場にいた私と彼女自身にとってはとても意味がある話し合いだったわけであります。そして、第三者から見て意味があるかどうかということは、カウンセリングではまったく関係がないのであります。ただ、そのクライアントにとって意味のある体験をすればいいのであります。

 

 理解してもらうには三つの段階、方法があると最初にお話ししました。文章で伝えることができるのは、二つ目の段階までであります。「カウンセリングってどんなことをするの?」と問われる方に対しては、私が伝えることができることには限界があるということも理解していただきたいと願います。それでも知りたいと思われる方は、どうか三段階目までふみ出してほしいと、つまり、現実にカウンセリングを受けに来て体験するということをしてほしいと願うのであります。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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