12年目コラム(65):臨床心理の日米欧(11)~合理主義
あれは僕が20代の前半だったか中頃だったか、こういうことがあった。僕はたまたまお酒を飲みにあるバーに入ったのだけど、そこでジャズライブが行われた。1ステージ目が終了後、僕はそのバンドのピアニストに話しかけた。当時、僕はピアノを一生懸命に練習していたので、話を伺いたいと思ったのだ。
彼との会話の中で、僕は「やはり上達しようとするとハノンとかやった方がいいですか」と尋ねた。彼は「そやな、でも、ハノンだけやっても上達はしないで」と答えたのを覚えている。その時の僕は、何となく、「ふーん、そうなんや」くらいにしか感じなかった。でも、後年、彼が言おうとしていたことが分かってきた。
ピアノをやらないという人のために説明しておくと、ハノンとは運指をメインとした練習曲集で、ピアノを習う人はまず取り組むことになるのではないかな。それは最短で上達することを目指しており、機械的な練習曲が集められているものである。
ハノンを練習すると、僕もど素人ながら経験するのだけど、短期間で指がよく動くようになる。確かに、その目的にはもっとも適した教本かもしれない。
それなのに、ジャズピアニストの彼は「ハノンだけやっても上達しない」と言った。クラシックのピアニストなら、きっと、あの時、「絶対ハノンをやるべきだ」と言っただろうと思う。一体、彼は何を言おうとしたのだろう。それはおそらく、彼のピアニストとしての経験から生まれた言葉であるはずである。僕たちは後でもう一度この言葉に戻ろうと思う。
合理的というのは、「最短で目的に達すること」と定義した。僕はそれに反対するわけではない。合理主義が行き過ぎてしまうことに警鐘を鳴らそうとしているだけである。つまり、「合理的にやってはいけない領域のことまで合理的にやってしまおう」という傾向のことである。
ミンコフスキーは、『精神分裂病』(僕が今でもお世話になる本だ)において、精神分裂病では生の合理的因子が肥大しているということを述べている。僕はそれがすごく腑に落ちたのを覚えている。
人間の生には、合理的と言える因子と非合理的と言える因子とがある。「現実との生きた接触の喪失」とは、生の非合理的因子と関係する。非合理的因子が縮小してしまうので、合理的因子が肥大してしまうということである。
合理的とか非合理的というのは、いくつもの対比で捉えることができるが、例えば思考と感情といった対立である。分裂病では、感情が縮小し思考が肥大するということである。
参考までに同書から、この対立を引用してみよう。
本能 と 頭脳
感情 と 思考
総合的な洞察能力 と 些細事の分析
印象に頼ること と 証明を求めること
運動 と 不動
人々と事件 と 物体(物質)
現実 と 表象(イメージ)
時間 と 空間
継起 と 延長
目的 と 基礎
と、一部僕が付加した部分もあるけど、上のリストの左側が非合理的因子で、右側が合理的因子ということになる。精神分裂病では、左側の因子が小さくなり、右側の因子が大きくなるということをミンコフスキーは述べているわけだ。
少し結論まで飛躍させるのだけど、僕はこう思うわけだ。人間を人間たらしめているのは生の非合理的因子の部分であり、そこが損なわれるということは精神病ないしは精神病的になるということである。
精神病とは、極端な表現をすれば、生のあらゆる領域で合理的になるということである。飛躍した結論であることは自認するけど、僕はそのように考えている。従って、あまりに合理的過ぎる人は、人間らしく見えないかもしれないし、精神病的に見えることだってあり得ると僕は思う。その人は、人間としての何かが欠落しているという印象を会う人に与えるかもしれない。
冒頭に挙げたジャズピアニストさんの言葉に戻ろう。彼が言おうとしていたのは次のことだったのではないかと、僕は思う。
ハノンを練習することは確かに上達への早道であろう。しかし、それは機械的な技術が向上したということだけである。感情の流れや表現など、合理的な練習では得られないものが抜け落ちてしまうということなのだ。僕はそのように理解している。
実際、ピアノを長く習っていたという人で、アドリブで何か弾くのができないという人も僕は知っている。案外そういう人も多いかもしれない。つまり、楽譜があって、その譜面のものを演奏することはできるのだけど、今の感情や気分で即興で何か演奏してみろと言われると、途端に何を弾いていいか分からないということになるようだ。
ハノンだけでは上手くならないというのは、そういう事情を指しているのではないかと僕は思う。
人間の生には、必ず非合理の要素があるものである。その要素がその人をその人らしくしているかもしれない。合理的にやることは間違ってはいないのだけど、非合理の部分にまで合理性を持ち込んでしまうことに問題があると僕は考えている。それこそ過剰な合理主義なのである。
次節にて、もう少し上述の観点について述べようと思う。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)