12年目コラム(64):臨床心理の日米欧(10)~実利主義・合理主義

 僕の悪い癖で、何かあるテーマで書き始めると、少しずつ脱線していって、なかなか本線に戻れないというところがある。この「臨床心理の日米欧」シリーズは、アメリカ型合理主義を一つの中心テーマとしていたはずなのに、いつの間にやら、他のテーマを取り上げるようになってしまった。
 僕はこの悪癖を反省しつつ、ここで本来のテーマに戻ろうと思う。

 オルポートによると、ヨーロッパにはライプニッツ的伝統があり、アメリカにはロック的伝統があると言う。もちろん、これは比喩手的な表現であるが、言わんとすることは僕にも理解できるように思う。
 ロックというのは、経験哲学者のジョン・ロックのことである。この経験主義哲学とは、簡単に言えば、人間は生まれた時は白紙であり、後の経験によってさまざまな図柄が描きこまれるという考えである。アメリカは伝統としてこの考え方を有しているということである。
 だから行動主義心理学がアメリカで生まれるのは当然である。ワトソンによって提唱された行動主義は、人間のあらゆる行動はすべて学習の結果であるということになる。そして、行動主義の思想に基づく行動療法とは、問題となっている行動などはすべて間違った学習の結果であるから、それの治療とは新しいものを学習し直せばよいということになる。
 行動主義、並びに行動療法の考え方というのは、極めてシンプルなのである。例えばヘビが怖いという人は、ヘビを恐れるという学習を身につけたのであるから、一旦、それを除去して、再学習し、その人がヘビを怖くなくなれば「治癒」したということにしようということである。
 行動主義は、心理療法における「第2勢力」となっていった。

 ちなみに、心理療法における「第1勢力」とは、精神分析である。精神分析は、それが正しいかどうかという評価は別にしても、それ自体一つの体系的な治療法であるということは否定できない。
 それ以前の精神医学においては、「治療」はさまざまな形で行われていた。血を抜いたり、ショックを与えたり、薬物を投与したりもするし、静養させたり、庭仕事をさせたり、お風呂に浸からせたりといった具合で、とても体系的な「治療法」とは言えないものであった。
 少なくとも精神分析はそれを体系としてまとめあげた功績がある。そこは認められるべきだと思う。そして、一部の精神科医たちが精神分析の理論や手法を取り入れていくことによって、記述精神医学は力動的精神医学へと発展していった。
 もちろん、精神分析に対する批判もたくさんあった。その批判の中心となるのは、とにかく精神分析は時間がかかるということであった。また、治療の成否がはっきりしないという難点もあった。
 行動主義はそれらの批判に答えようとして生まれたという一面がある。行動療法は、何を「治療」するかをかなり明確にする。そして、その除反応を行い、再学習していく過程を計画的に構成する。そして、何よりも、治療結果がはっきりわかるのである。最初の「治療」対象が除去ないしは別の何かに置き換わった時に、治療は成功したと断言できるのである。そこは極めて明確である。

 こうして精神分析と行動主義という正反対の学派が生まれたわけであるが、何事もそうであるように、両極端のものは似てくるものである。
 精神分析の諸概念・方法論は、すべて行動主義の用語で説明することも可能である。外傷体験と反復強迫は、すべて学習である。転移はその汎化である。精神分析が転移を分析して解消することは、除反応、除学習の過程である。精神分析は抵抗分析によって抵抗を除去するように、行動療法はプロセスを明確化することで抵抗を除去する。精神分析の治療法、つまり一回50分のセッションを週に6日行うという方法も、これは継続的な学習と見ることも可能である。無意識を意識化していく過程は、そのまま系統的脱感作の過程に通じるものがあるように僕は思う。
 先ほど、行動療法ではヘビが怖いという人に対して、ヘビが怖くなくなるまで学習を重ねると述べたけれど、これなんかも精神分析で言う徹底操作と類似の概念である。
 行動療法では、怖い対象に対して、少しずつ接近していく。その距離で不安がなくなれば、さらに接近していく。最後には対象が恐怖感情を喚起しなくなるまで接近するわけである。
 精神分析では、クライアントはある苦しい体験を話す。いや、最初は話せないかもしれないけど、どこかで話すことができるようになる。そして、クライアントはこれを繰り返し話すように求められることもある。
 二度目に話した時には、最初の話した時よりも、より多くのことが見えているだろう。それは抵抗としての抑圧の解除が進行しているからである。そうして、その体験が苦痛をもたらすことがなくなるまで話せるようになっていくのである。苦痛が軽減すればするほど、抑圧が解除され、想起される事柄が増えていき、現在の自我でそれを再体験、再評価できるようになるわけである。このプロセスは行動療法と同じものだと僕は見做している。
 ちなみに、なぜ精神分析療法が時間がかかるのかという、その一因がここにある。クライアントは同じこと、同じ場面を繰り返し話すことを求められるからである。

 上述のように、精神分析と行動療法と、案外、両者は似ているかもしれないのである。だから、僕は行動療法には反対しないのである。行動主義を学ぶことで精神分析の理解が深まることだってあるのだ。
 しかし、行動主義においては、それが極端になると、人間は何も有せずに生まれてくるという考え方になってしまう。それに、感情などの内的体験が無視されてしまう。意志、選択、決断といった主体性の概念が失われてしまう。そういう諸問題を生み出すように僕は思う。こうして、心理療法の「第3勢力」である、人間性主義心理療法が生まれていったのだ。

 ここでは「第3勢力」のことは取り上げないでおこう。
 行動主義を通して僕が言いたいのは、これが一つの合理的方法であるという点である。
 合理的というのは、できるだけ最短で目的地に着こうという思想である。僕はそこが理解できないわけではない。できるだけ最短で到達したいと人は願うものだと思うからである。
 問題となるのは、行き過ぎた合理主義である。物事を合理的にやってのけるとは、感情などの内的経験を抜きにして、機械的にそれをやってのけるということである。人間的な感情なしにやってのけてしまうことである。僕はそのように考えている。
 例えば、「人を殺してみたかった」という人がいるとしよう。この人は人の集まる場所、繁華街などの雑踏の場に向かう。そこでむやみやたらと刃物を振り回し、車を暴走させ、爆発物を爆発させる。実際にこうした事件が起きている。
 もちろん、これは極端な例であるが、極端な例であるほどよく伝わることもあるのである。
 この犯人は合理的に目的を達したのである。いかなる感情体験をせずとも、機械的にこれらの行為をやってのけるのである。それが行き過ぎた合理主義なのである。
 もし、この犯人が、「人を殺してみたい」と思い、人通りの少ない寂しい道端で誰か被害者となる人間が通りかかるのを延々と待っていたとすれば、これは明らかに非合理的なやり方だということになる。犯人は、誰かが通りかかるまでの間、苦悩に苛まれ続けることだろう。こんな苦悩や葛藤に曝され続けるより、人通りの多い所で、自動車を暴走させる方が、より手っ取り早い上に、合理的で、最短で目的が達成されるのである。この時、苦悩や葛藤に曝されるという体験は無用なものとして排斥されているのである。

 合理主義そのものに僕は反対するのではない。行き過ぎた合理さ、過剰な合理さ、あるいは歪んだ合理さに僕は危惧するのである。もしくは実利主義と言えるようなものに対してである。
 僕たちは、ある時には合理的であることが望ましいけど、あまりに合理的であってはならない場面もあると思う。合理主義は自我の監督下になければならないものだと思う。合理主義に支配されてしまうことが問題なのである。
 あるクライアントは言った。「ボタン一つでロケットを飛ばせる技術があるのに、心の病を治せないなんておかしい」と。この考え方はすでに合理主義に支配されているのである。非合理の要素を完全に排除した思考なのである。そして、こういった思考は人間の心とか精神、魂の領域とはそぐわないものである。なぜなら、心とか、精神・魂といった概念は非合理の領域にあるものだからである。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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