12年目コラム(63):臨床心理の日米欧(9)~受容と共感
個人的な印象でしかないかもしれないけど、日本のカウンセラーはとかく受容ということと共感ということを特に強調するように思う。そのためか、一緒に研修をしていた同学生たちも、「受容しないといけない」とか「共感しなきゃ」といった、なかば強迫観念化した言葉を漏らしていたのを僕は覚えている。
彼らも、その他の臨床家たちも、一体、受容するとはどういうことかをきちんと考えていただろうかと、僕は思う。
僕は、基本的には、その人と一緒にいるということが、それだけで十分な受容になると考えている。それ以上のことは必要ないとさえ考えている。僕がクライアントと一緒にいる。それだけで僕はそのクライアントを受容しているのである。だから、クライアントと一緒にいる時間、僕は電話にも出ないし、来客も相手にしない。席をはずすということも基本的にはしない。クライアントと一緒にいて、僕がそのクライアントに関する以外の何かをするようであれば、それはクライアントを受容していないということになるからである。
受容とはそういうことである。その人と一緒にいるということを、お互いに受け入れることである。
もし、それ以上の何かを付加したいのであれば、一緒にいることに加えて、その人の自然を認めるということだけである。相手の中に生まれた自然な感情、要求を、認めるというそれだけである。
しかし、ここは注意が必要な部分である。その感情や要求を認めることは、それを実現させることではないのだ。これはまったく次元が異なる部分である。ここを混同してはいけないのだ。
実際、一昔前にはこういうことがよく起きていた。クリニックにいた頃にもそういう話を聞いた覚えがある。例えば、子供のことで母親が困っていて、カウンセラーに助けを求める。カウンセラーは母親に子供を受け入れなさいと言う。母親はカウンセラーの忠言を守ろうとする。だから子供がバイクを買ってくれと言ってくると、母親は子供を受容しなければならないと思うので、バイクを買い与える。ギターを買ってくれと言われると、母親は無条件に買い与える。すべてカウンセラーの一言、子供を受容しなさいという忠言を守っているからである。
もちろん、この母親が子供に対してやっていることが受容ではないということは、すでに理解できるだろうと思う。受容とは相手の言いなりになることではないのである。
相手が何か要求を出してくる。バイクを買ってくれと要求してくる。「そう、バイクが欲しいと思うのね」は受容の域である。でも、そこから先のことは受容とは無関係である。言い換えると、相手の要求を受容して、相手に「ノー」を言うことは可能であり、それはなんら矛盾することではないのである。
相手を満たすことは受容ではないのである。もし、相手が欠乏しているなら、その欠乏をそのまま受容するのである。受容とはそれ以上でも以下でもないはずである。
共感ということも、誤解されやすい概念である。本来、それは「共感的理解」であるところのものである。重要なのは「理解」の方であり、共感はその理解の種類とか性質を表しているだけである。共感は副であり、理解こそが主である。日本人はこれを逆にしてしまうことがある。
ある人が悲しい体験を語り、泣き始めているという場面があるとしよう。そこで、カウンセラーが一緒に泣いてしまうとする。確かにそれはクライアントに共感していると言える。これ以上にないほどの共感だ。ところが、ここで一緒に泣いてもらうことは、クライアントには何の助けにもならない。そればかりか、このカウンセラーは共感はしているけれど、クライアントに対して一切心を閉ざしているのである。
それに対して、カウンセラーはこう言うこともできる。「そうか、あなたはこれこれこういうことがあって、とても悲しい気持ちになって、泣きたくなっているんだね」と。これは理解に属する応答である。そして、こう言ってもらえる方が、一緒に泣いてもらえることよりも、どれだけクライアントに救いとなることであるか。
クライアントと同じ感情を持とうとしても、それは無理である。その体験をしたのはクライアント個人であり、カウンセラーはそれを体験していないからである。一緒の気持ちになるというのは、僕の考えでは、すべて幻想なのだ。別々に存在している二人は、決して同じ気持ちになることはない。同じような気持ちになることはあっても、それが完全に一致することはない。同じ場面に遭遇した二人であっても、一人が見えているものと、もう一人が見えているものとの間には違いがあり、体験されている事柄も同一とは限らないのである。
カウンセラー側の共感は、すべてカウンセラーの中で推測されたものであり、生み出されたものである。そして、そういうものとして表明されたとき、それが本当の共感的理解になると僕は思う。つまり、「そういう体験をしてしまうと、悲しくなって、泣きたくなるのは当然だと僕も思うよ」ということだ。「あなたのやっていることは、私には自然なことのように思える」という意味を伝えることなのだ。
受容が難しい場面というのもある。それが難しいのは、多くの場合、相手と自分との間に差異がありすぎるからである。少々の差異であれば問題ではないし、理解が及ぶ範囲の差異であればどうにか受容できるのだけど、相手が自分とあまりにもかけ離れている場合である。他の人はどうか知らないけど、それは僕には苦しいこととして体験されてしまう。受容とはこの苦しいことに耐えることなのであって、それを消去することではないと僕は考えている。
しかし、受容も共感も特別なことではないと僕は考える。相手のことを理解しようと努めている時、その人は自ずと相手に対して受容的であり、共感的になっているものである。相手のことを理解しよう、知っていこうという気持ちとか姿勢の方が大事なのであって、共感すること、受容することがメインになってはいけないのだと、僕はそう思う。受容や共感も確かに重要なことであり、人間関係においても必要な要素である。でも、別個に存在している、未知なる相手を知っていこうという試み以上のものはないと僕は思う。
ここで、相手を理解するとはどういうことかをきちんと述べるべきなのであろうけど、分量の関係で、あまりそこには踏み込まないようにしよう。
相手を理解するとは、自分自身に目を向ける不断の努力でもある。僕たちは、相手を理解したのか、相手のことで自己の心的内容を見てしまっているのか、厳密に区別できなければならない。相手のことを十分に知らない場合、僕たちは自分の心的内容によって欠落部分を埋めてしまうのである。知らず知らずのうちにそれをしてしまうのである。
例えば、ある人の話を伺っていて、あなたは「この人は強迫傾向がある」と理解したとしよう。この人の話からそれが伺われたというのは、あなたにとっては事実であるかもしれない。でも、この時、あなたは相手を見ているのか、相手を通して見えてきた強迫性障害を見ているのか、判然と区別できるだろうか。そもそも相手の中に強迫性傾向を見て取ること自体が、あなたの心的投影でないと断言できるであろうか。
詳述はしないけど、相手を理解するというとき、問題になるのは、理解される相手ばかりではない。理解する側のことが常に問題になるのである。僕がカウンセリングをするということは、その都度、カウンセリングをする僕が問われ続ける場面なのだ。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)