12年目コラム(36):取り入れ・同一視・対象恒常性(1)
カウンセリングを受けて、どうしてクライアントたちが良くなっていくのか、あるいは変容していくのか、多くの人からこの疑問を提出された経験が僕にはあるけれど、これを簡潔に説明することは難しい。
そもそも、クライアントはその人なりに変容していくものであって、一定の型があるわけではないから、ある人はこうなった、別の人はああなったというようにしか言えないものである。
僕のクライアントたち、ある程度継続していって、それなりに上手くいったと思える人たちもまたそれぞれである。これもある程度のところまでしか言えないことだけど、僕のカウンセリングを受けたクライアントたちは、ある意味で「ルーズ」になられる。その一方でとても活動的になられる人たちもいる。新しい何かを始めたり、中断していた何かを再開したり、あるいは方向転換する人もある。何が彼らをそうさせたのか、はっきり「これ」というようには言えない。
クライアントは、結局のところ、僕との関係を通じて、僕の中の何かを取入れ、同一視されていかれるのだ。僕にはそれ以上の説明はできない。
子供が親に似てくるように、クライアントも彼のカウンセラーに似てくると僕は考えている。だから、カウンセラーは自分がどんな考え方をしていて、どういうことを経験してきたかをクライアントに示してあげる方がいいと僕は思う。なぜなら、クライアントは自分に欠けている何かを求めてカウンセラーを選んでいることが多いからだ。
このことは、どうしてフロイトにはフロイトの理論に合うような人が来て、ユングにはユングの理論に合うような人が訪れるのかということの理由でもある。クライアントがカウンセラーを選ぶ時、クライアントは自分に共通するもの、自分に受け入れられるもの、さらには自分に欠けているものなどを臨床家に見出しているのだと思う。
だから、僕がAC理論を支持していないということを表明すると、AC理論を支持している人たちは来なくなるのである。その代り、AC理論を支持しない人たちが来られることになる。僕はそれでいいと思う。もし、そこで僕が無理をして、僕が信奉していない理論を、その人たちのために信奉しているフリをするなら、それはお互いにとって害をもたらす。僕は僕自身でないものを演じなければならない上に、クライアントはそういう演技をしている臨床家に同一視することになってしまうからである。
こうして、僕のところには、僕と合う人たちが来られ、継続されることになる。自ずとクライアントに偏りが生じてしまうわけである。
クライアントが継続して来られていると、ある時、「あれ、この人、僕に似てきたな」と思う妙な瞬間が僕に訪れる。この場面では僕だったらこう言うだろうなと思うことを現にクライアントが言ったりする。
もっともよく見られるのは、僕は本を読むのが好きだから、クライアントも本を読むようになるという例だ。時には「ここに来る途中、こんな本を見つけて、思わず衝動買いしてしまったんですよ」と見せてくれる人もあり、本の買い方まで僕に似てきたなと思うこともある。
音楽を始められる方もある。ある女性は僕のブログを読んで、子供の頃に習ったきり中断していたピアノを再開された。僕のどのブログだかはっきりしないけど、僕が楽しそうにピアノを弾いていると感じ、もう一度やってみたいと彼女は思ったそうだ。
考え方が似てくるという例もある。あるひきこもりの男性だったけど、ある時、一つの話題について、僕はこう思うと僕の見解を彼に言ってみた。彼は、その時は賛成しなかった。数回後、同じ話題になった時、彼はこう思うと彼の見解を話された。僕は、内心では、「それ、数回前に僕が言った見解なんだけどな」と思いながら、それを聴いた。でも、それは指摘しなかった。ここで大切だったことは、彼が自力で一つの見解に達したという彼の経験にあったからである。
表情や仕草が僕に似てくるという例もあれば、体形が似てきたという人もある。僕が太っていることをあまり気にしていないせいか、その人は無理なダイエットをしなくなったとおっしゃられた。
僕の像をはっきりと思い浮かべる人もある。「こんな時、寺戸先生ならどう考えるかなを考えてみます」とある男性は言った。子供が親を「社会的参照」にするのに似ているが、この男性はそういう親に恵まれていなかった、と言うか、親をそのように活用できなかったという人だった。
僕が、ある部分ではとてもルーズな人間なので、その部分を取り入れる人もある。ある男性は僕を評して「上手いことかわしますね」と言った。彼は人のありとあらゆる言葉を真剣に受け止めてしまうという人だった。僕は自分では人の言葉を真剣に受け止めてしまう人間だと思っているのだけど、彼によると、僕は人の言葉をうまくかわすらしい。その彼が、その後、徐々に人の言葉に影響されなくなっていった。彼なりに上手くかわすようになったようだ。それを聴いて、僕は彼の言っていることがわかった。改めて、僕にもそうしてかわすところがあるなと気付いた次第である。
先述のように活動熱心になられる人もある。その人たちは僕をたいへんな努力家だとみなしているようである。そして、彼らは、僕と同じように、あらゆる活動に幅広く従事するのではなく、一つのことに熱中するといった活動性を示されるのだ。
他にも例は挙げられるけど、これくらいにしておこう。
さて、クライアントが僕に似てきたなと思う瞬間がある。初期の頃、僕はそれがすごく怖かった。クライアントにそこまで影響を与えてしまっていいのだろうかと、僕はとても怖かったのだ。
経験を積んでいくと、クライアントがそういうふうになることには、とても望ましい一面があるということも見えるようになってきた。これは次回に述べようと思う。
最近では、クライアントが似てきたなと思うと、なんだか嬉しいような気持ちになることもある。
ただ、誤解のないように言っておきたいことが一つある。それは、僕は決して僕の複製をこしらえようなんて気持ちがまったくないということだ。あくまでも、クライアントが自然に僕の何かを取り入れていくのである。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)