12年目コラム(42):OP3「自己否定」

 本項で取り上げるのは人が自分自身を否定するという時に、どのようなことを当人がしているかということである。また、自己否定の構造についても考察してみるつもりである。
 カウンセリングを受けに来るクライアントは多かれ少なかれ自己否定感情を抱いている。神経症的な人ほど、この自己否定感情を全面的に打ち出す。私はそのようなクライアントと面接していく中で、自己否定ということがそれほど自明でもなければ、単純な話でもないということを感じるようになった。
 それが単純な話ではないというのは、つまり、自分自身を肯定していけばいいとか、プラス思考すればいいとか、褒めて伸ばそうとかいうような理論があまりにも単純で純粋すぎるように感じられるのである。もちろん、そうした理論が間違っているとかいうことを述べているのではない。それらはそれらで妥当性をも感じる。ただ、事態はそんなに単純で一本調子であろうかという懸念を抱いているのである。

 構造について考察してみよう。まず、自己否定も自己肯定も同じ構造を有すると私は捉えている。この前提に立って考察することになる。以下、自己否定について述べているが、自己肯定にも同じことが該当するものと考えてよいだろう。
 もし、私が自分の何かを否定する時、そこには否定する自分と否定される自分とが存在しているのを私は感じる。つまり、自分自身に距離を作らなければ、自己否定も自己肯定も成り立たないということである。
 つまり、自己否定が生じる場合には、常にその人は自分自身との間に距離をもたなければならないということである。それは自分自身を対象として物体化しなければならないということを意味する。
 本来的な自己である「体験する私」は評価される対象として物質化されることになる。ここに自己疎外の兆しを私は感じる。
 人が自己を否定する時には、そのような内部分裂を生じさせなければならない。「否定する自己」と「否定される自己」とに分断しなければならない。
 自己を分裂し、自分自身との間に距離、断絶を作らなければ自己否定も自己肯定も成立しないと私は考える。まず、この点を押さえておきたい。

 しかしながら、不思議に聞こえるかもしれないが、人はしばしば自己否定しておきながら、その自己否定を積極的に肯定するということをする。
 これはどういうことかと言うと、「否定される自己」は否定されているが、自己を「否定する自己」は肯定されているという在り方のことである。
 例えば、「私は悪い人間だ」というように自己否定している人がいるとしよう。この人は自分が悪であることで自分を否定し、自責感情に苛まれている。ところが、その一方で、自分が悪い人間であると自分を弾圧している自分に対しては、むしろ肯定しているということである。あたかもそうすることで自分の悪が浄化されるかのようにである。
 自己否定も自己肯定も自己の分裂をその中に含むものであり、それはさらに二重三重の構造を持ち得るものである。
 この構造は無限に重ねることが可能である。
「私は悪い人間だ」とある人は自分を否定して言う。
「私は悪い人間だと自分を否定している点で、私は自分を肯定できる」という構造があり得る。
「私は悪い人間だと自分を否定していることを肯定している私はもっと悪い人間だ」という構造をさらに重ねることも可能である。
 もし、「私が悪い人間」であるならば、その私を否定し、弾圧している私は「善」でなければならない。この「善」は当人には肯定的に受容されている。
 この自己肯定が存在しているが故に、自己否定の神経症的な循環が生じるのである。

 ところで、ここで問題にしたいのは、果たして物事が肯定と否定とに分割することが可能なのかということである。そもそもこの二分法に根本的な矛盾がありはしないだろうか。
 私は両者は切り離すことができないという見解をとっている。つまり、肯定には否定がついており、否定は肯定を含んでいるという見解である。
 何かを否定する時、私たちは同時に他の何かを肯定しているということをしているものである。
「地球は丸い」という肯定文は「地球は四角ではない」という否定の意味を内に秘めている。「鳥は地上を這わない」という否定文は「鳥は空を飛ぶ」という肯定文を含んでいるわけである。
 このように否定文を見ていくなら、クライアントが自分自身を否定するその言葉を聴いていけば、自ずと当人に肯定されているものが何かということが窺えることもある。
 ある男性は「僕は女性に好かれない人間だ」と自分を否定して述べる。この時、実はこの男性は「僕は女性が嫌いだ」ということを述べていることもあり得るし、「女性と親密になるのが怖い」を意味していることもあり得るだろう。そして、この肯定文の方は、当人には違和感なく受け入れられている。
 もし、自分の中で繰り返し述べている肯定文の方を否認したいと思えば、恐らく、それは否定文の形で表明されるのだろう。
 もし、先述の男性が「僕は女性と親密になることが怖い」という感情を抱いておりながら、それを認めたくないとすれば、それを口に出す時には「僕は女性に好かれない」という表現になってしまうのだろうということである。
 注目したいのは、否定文で述べられた方と肯定文で語られる方とでは、どちらがより真実の彼の感情を物語っているかという点である。
 私の考えているところでは、自分自身に関して否定文で語られる事柄は、常にその人の本心に覆いをかけるものであるということである。つまり、自己欺瞞がここに生じているということである。
 すべての自己否定がそうであるとは言えないかもしれないけれど、自己否定は当人の認めたくないものを隠蔽する役割があり、自己欺瞞である。私はそのように考える。

 自己否定感に苛まれているクライアントが、自分の本当の気持ちに気づくことは難しい。カウンセリングの場面で、私は頻繁にそれを体感する。
 あるクライアントは「自分はダメだ」ということを延々と訴え続ける。彼の中では「否定され、叱責される自分」と「否定し、叱責する自分」とがある。
 後者の方、つまり「自分を否定し、叱責する自分」というのは、より後から形成されたものである。精神分析的に言えば、それは過去の重要な他者が取り入れられ、かつてその人が彼に対して言っていたことを、彼が自分でするようになったと見ることができる。
 「あなたがダメだというのは、誰がそう言ったの」と私が尋ねると、彼は「父がそう言っていた」と答えた。彼の父親が彼にしていたことを、彼は今では父親抜きで自分でそれをするようになっているわけである。
 この時、この父親像は肯定されていることになる。つまり、彼にとって、この父親は絶対的に正しい存在として体験されているからである。父親、ないしは、彼の中に取り入れられた父親像を肯定するということは、必然的に彼自身は否定されなければならないということになるからである。
 この男性に自己欺瞞はないだろうか。彼は自分を否定している。この否定は彼の父親がしていたものであるということを彼は想起している。ここで、実は彼は自分自身を否定しているのではないのだということが窺われる。父親がそうしていたのであって、彼自身がそうしているのではないという文脈が浮かび上がってくるわけだ。
 従って、彼は「自分はダメな人間だと信じたくない」ということを本当は言いたいのだろうと思われる。ただ、彼にはそれを声を大にして主張することが禁じられている。この禁止が彼に自己否定の文章を綴らせてしまう。本当は父親の方を否定したいのだけれど、彼はそれをすることが許されないことのように体験されている。
 彼は父親を肯定している。その父親の言葉である自己否定を彼は肯定している。「否定する自己」は、父親譲りのものであるが、彼には肯定されている。この肯定感情は彼をしてそうすることの正当性を高めてしまうだろう。つまり、自分を否定し叱責することがあたかも正義であるかのように体験されてしまうのだろう。(中絶)

(解説)
 これを書いたのは覚えている。クライアントがあまりに単純に「肯定された」とか「否定された」とか言うのを耳にして、本当はそれはもっと複雑な事態なのだということを示したかったのだった。
 最初は順調に書き進めていって、これを節分けしたり、文章の校正をしたり、手直しして完成に至るはずだった。ところが、順調に書き進めていくうちに、このテーマがどこに行き着くか見えなくなってきたのだった。それで筆を置き、考えをまとめようとして日々を過ごしているうちにウヤムヤになってしまったのだった。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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