12年目コラム(59):臨床心理の日米欧(5)~反精神医学運動
1960年代に、R・D・レインやD・クーパーを筆頭に反精神医学運動が勃発した。日本でも、少し遅れて、1970年代に彼らの本が次々に翻訳され、広く読まれたようである。ちなみに、彼らの思想に僕もずいぶん影響されている。僕はそれを自分でも認める。
しかしながら、反精神医学の方法論は必ずしも成功したとは言えない。レインらは、施設としての精神病院に異議を申し立てる。精神病というレッテル張りに抗議する。僕もそれは賛同できる。でも、その方法論になると、患者を無構造の環境に置くことになるだけであるように僕は思う。
結果的に、彼らの運動は失敗に終わるのである。秋元波留夫先生がいみじくも指摘しているように、「彼ら(反精神医学者)たちが施設としての精神病院を否定すればするほど、施設としての精神病院が必要になる」(『精神医学と反精神医学』金剛出版 参照)という環境が生まれてしまったのだ。
精神医学の革命家たちは、その革命に敗れたのだ。彼らの著作も、現在ではせいぜいレインの著作が読める程度で、その他の臨床家の本はまったく見かけなくなった。
しかし、彼ら反精神医学者たちは本当に間違っていただろうか。一部では間違っていたところもある。それは確かである。ある部分が間違っているからと言って、彼らの主張のすべてが間違いだと言えるだろうか。その中には正しい主張もあるのではないだろうか。
モード・マノーニは反精神医学の運動は非医学的な領域をすべて医学化してしまうことに対する抵抗だと解釈している(『反―精神医学と精神分析』人文書院 参照)が、僕はそれは正しいし、大切な主張だと思う。
他領域の成果を医学がどれほど速やかに吸収するか、それは目を見張るほどである。生理学の分野から発展した自律訓練法やバイオフィードバック法を医学はなんと速やかに自家薬篭中のものとしたことか。
僕の知っている内科医の先生は、なぜか神経言語プログラミングの研修を受け、資格を取得していたりする。そう、あらゆることが医学に吸収されるのである。吸収されたものはすべて医学の中で位置づけられるのである。
反精神医学の主張に中で、僕がもっとも大事だと思うことは、患者の言葉を一人の人間の言葉として受け取るという主張である。医学の対象として患者の言葉を取り扱わないということである。そして、患者の言葉の中から、その患者の真実を、人間の真実を聞き取るということである。
だが、精神を病む患者の言葉は、人間の真実を生々しく映し出す。臨床家も人間である。それに対しては耳をふさぎたくなる気持ちが生じる。僕もその気持ちが理解できないことはない。医師たちは、そこで医学による武装化を試みることによって、自分を守るのである。こうした医師の態度に対する異議申し立てとして反精神医学は読まれなければならないと僕は考えている。
反精神医学の主張は、突き詰めれば、現象学的精神病理学の領域に重なってくると思う。ビンスワンガーやミンコフスキーを始め、ブランケンブルグやケープザッテル、シュトラウスらといった精神科医たちの仕事に通じるものだと思う。
こうした精神科医たちともっと協力していれば、反精神医学運動家たちも生命を保っていたかもしれない。反精神医学運動家たちはちょっと扇動的にやり過ぎたという観を呈していなくもないように思う。
どんな分野でも主流派に対して反主流派を形成する人たちが出てくるものである。主流派に異議申し立てする人たちが現れるものである。肝心な点は、その時にはすでに、主流派にある種の問題や弊害が生じているという点である。
主流派に問題や弊害が生じている。主流派の人たちは、主流派に属しているが故に、それに気づかないかもしれないし、気づいていても無視しているかもしれない。でも、主流派に属している人たちの中で、そういう問題や弊害を敏感に感じ取ってしまう人たちがいて、この人たちが反主流派を形成していくのだと、僕はそのように思う。
従って、主流派と反主流派とどちらが正しいことを言っているかという議論は不毛なのである。両者がどのような主張をしようとも、そこに生じていた問題や弊害に目を向けることをしなければならないのだ。
レインは精神病院を一つの強制収容所のようなものとして見ていたようだ。精神医学者たちはこの見解に反対するだろうし、賛成する人たちは反精神医学者グループに属することになるだろう。
しかし、レインがどのような比喩を用いようと、レインの主張していることは、病院が病院らしさを失ったという点にあるのではないだろうか。そうであれば、これは正統派の精神医学者にとってもしっかり考えていくに値する問題ではないだろうか。
だらだらと思いつくままに綴ってきたけど、最後に僕の個人的見解を述べておこうと思う。
反精神医学者が敏感に感じ取っていたことは、病院や医師、並びに治療や援助状況から人間性が失われつつあるということではなかっただろうか。僕はそう思う。
病院は、人間性を度外視した収容施設となり、医師たちは患者の言葉を一人の人間の言葉として受け取らず、治療対象としてしか受け取らなくなっているようにレインには見えていたのではないかと思う。それはつまり、僕の言葉で言えば、人間の要請に応じていない状況だったのではないだろうか、それが反精神医学運動の主張として展開されていたのではなかっただろうかということである。
もちろん、医師や病院がただちに間違っているとか、間違った方向に進んでいるとか結論付けるつもりは、僕にはない。そこにはさまざまな政治的背景もあるだろうからである。
病院も、どの科の病院であれ、生き残ることが難しいとされている時代になっている。そんな厳しい状況では、人間の要請に応じるよりも、政治の要請に応じなければやっていけないのかもしれない。これこそ世の終わりであるように僕には感じられている。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)