12年目コラム(56):臨床心理の日米欧(2)~アメリカ型合理主義
医療費が増大するから病院の病床数を減らそうという発想は、僕にはとても合理的であるように思われる。合理的過ぎるくらい合理的な考え方であるように思う。
アメリカはそういう合理主義が見られる場面がとても多いと思う。それが国の発展をもたらしたという一面もきっとあるだろうけど、弊害もあるのではないかと思う。
例えば、アメリカという国は、世界大戦で大きな戦果をあげた。資源や人員に恵まれていたおかげもあるかもしれない。でも、戦果をあげることのできた理由の一つに心理テストによる人間の選別があったと僕は思う。
アメリカ軍は心理テストを採用したのだ。だから心理学の世界において、あの時期のアメリカで心理テスト研究が盛んに行われたために、この分野が大きく発展したのだと思う。皮肉なことに、戦争が学問を発展させることもあるのだ。
さて、兵士に心理テストを実施する。言語能力が弱い兵士は司令官にはなれないし、通信兵としても適役ではないだろう。そういう人は言語理解力がそれほど必要とされないポジションに回されることになる。例えば、簡単な号令が理解できればいい突撃兵に回されるかもしれない。
日本では、例えば、郵便局員だった人が通信兵に回されるなど、以前のキャリアで選別されることが多かったように思う。心理テストによる選別は日本ではなかったのではないかと思う。
アメリカ軍は心理テストの結果に基づいて人間を選別したりもした。より適材適所を確立するためには、テストをさらに改良して、その精度を上げていけばいいということになる。こうして、心理テストの研究が盛んになり、いくつもの心理テストが案出されたのだ。
もちろん、僕の歴史認識は間違っているかもしれない。それに実際の現場を見たわけでもない。僕の偏見に過ぎないかもしれないし、そうであってほしいと思う。
ところで、上記の話のどこが合理的であったかが分かりにくかったかもしれない。少し補足しておこう。
知能検査を例に挙げてみよう。知能検査は、もともとはフランスのビネーによって開発されたものだった。その発端は、クラスの中で発達の遅れた子をどうやって見つけ、その子にどういう養育をしていけばいいかという疑問であった。
ビネーの検査は、検査を実施し、最終的にその子の精神年齢を割り出すものであった。
例えば、5歳児のクラスの子供たちに検査を施す。その中に精神年齢3歳の子がいたとする。この子は、外見上は分からないかもしれないけど、周囲の子についていくことに困難を覚えているかもしれない。
ここからが重要なのであるが、もし、この子の精神年齢が3歳なら、いっそのこと3歳児のクラスに入れてしまえということであれば、それはテストによって、この子を選別したことになる。そして、これは極めて合理的な考え方なのである。
でも、知能検査の目的はそれをすることではなかった。その子の精神年齢が3歳であるなら、この子には3歳児の養育をしてあげる必要があり、3歳児向けの教材を使用した方が良いということが分かるわけである。
分かりやすく言えば、知能検査とは、その子に適した教育や養育を選出していくための補助資料のようなものだったのである。
従って、テスト結果は、その子を選別するものではなく、その子に必要とされるものを選別しているのである。
ビネーの知能検査は、各国に広がっていったが、アメリカでさらに改良されるようになった。
ビネーの検査は、大雑把に言えば、その子に何歳までのことができて、何歳からのものができないかを測定しているだけである。その子の今の能力を測定しているものである。実年齢が5歳の子供が、精神年齢3歳であるとすれば、その子は2年遅れているということを指しており、その子は3歳までのことができるということを示しているわけだ。しかし、同じ精神年齢3歳の5歳児がみな同じであるかと言うと、そうでもないのである。
アメリカはこの問題を解消したのだ。知能テストを標準化する試みをするのである。ターマンという心理学者がこれに貢献したのであるが、そこで知能指数、いわゆるIQという概念が持ち込まれることになったのである。
どの年齢層であれ、知能指数が100であれば、標準的な知能の持ち主であるとされるわけである。日本でもこれが採用されていて、IQ69以下が精神薄弱とされたのである。
ここでは知能は量的に把握されることになっている。何ができるかではなく、どれだけの指数を有するかで示されている。精神年齢という概念よりも、はるかに理解しやすく、率直に伝達されるものである。ここにもアメリカ型の合理主義を見る思いがする。
また、それまで知能検査は検査者と被験者が一対一で行うのが普通であった。
ターマンが知能テストを改良していたのと同時期の1917年、アメリカは集団知能検査を実施する。これもまた一つの合理主義である。
ちなみに、この1917年の集団知能検査とは、アメリカが第1次世界大戦に参戦する際に、兵士を選抜する必要に迫られて開発したテストである。US Army Testと呼ばれ、A式、B式、AB式の三種がある。
今でこそ、集団で知能検査や心理テストを受けることは珍しくなくなったかもしれないけど、当時は斬新なことだったのではないかと僕は思う。
テストを一対一で実施するというのは、とてもたいへんな作業なのである。まず、検査者の影響を少なくするために、検査者は常に一定のやり方で教示が与えられるように訓練されなければならない。また、検査者間で相違が生じないように、誰もが同じように教示し、実施できるまで訓練される必要もある。さらに、検査場面では、被験者の様子なども補助資料として採用されることがあるが、この場合、テスト結果の判断がいささか複雑になってくる。従って、検査場面での被験者の観察、検査結果を解読する技術も訓練されなければならないわけだ。
集団実施は、上記のすべての困難を除去するものである。検査者、実施者は特別に訓練されていなくてもよいわけだ。被験者一人一人の様子や反応を吟味しなくてもよく、それらを結果に反映させることもなく、あくまでも実施されたテストの結果だけで判断していいということになるわけだ。
心理テストには常に信憑性の問題がある。つまり、テストを受けた被験者が正直に答えているかどうかという問題が常に含まれているわけである。
やはりアメリカで開発されたMMPIなるテストは、この問題をテスト実施と同時に解消するという優れものだ。僕も感心するくらい合理的にそれをやっているのだ。
MMPIは質問に答えるという形の筆記テストなのだけど、その問題の中にいくつもの「ウソ発見」のための質問が紛れ込ませてあるのだ。従って、その種の質問に対する回答を集計すれば、この被験者が正直に答えているかウソをついているかが判断できるというわけである。
以上、アメリカ型の合理主義に関して、心理テストの分野で、思いつくままに述べたのだけど、合理的にやることが必ずしも悪いわけではない。ただ、あまりに合理的になりすぎると、それは「非人間的」な領域に接近していくだろうし、何よりも人間関係を縮小することになる(検査者と被験者の関係のように)だろうと思う。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)