12年目コラム(55):臨床心理の日米欧(1)~1963年の「大解放」

 1963年アメリカ。
 当時のケネディ大統領は精神科の病床数を3分の1以下に縮小するという政策を打ち出した。それにより、精神科医たちは、患者をできるだけ入院させず、入院させたとしても短期間で退院させて、可能な限り外来で処理しなければならなくなった。
 規模の大きい精神病院は病床数が激減し、小さい精神病院はやっていけなくなる。
 一応、それを補う形で、各州に精神衛生センターのような施設が立てられた。しかし、この精神衛生センターは利用者が当初の予想よりも少なく、後のレーガン大統領の時代に補助金が打ち切られたそうだ。

 こうした状況で一番害を被るのは患者たちである。当時は精神科を受診したくてもできない人や、隣の州まで行かなければ病院がないといった状況もあったようである。僕の予想では、多くの精神的に病む人たちは、医療にかかることなく、どうにかこうにか生きていたか、浮浪者や犯罪者になっただろうと思う。
 患者たちと同様に、臨床家たちも厳しい状況に置かれたと思う。病床数は減少し、病院の数も減るわけだから、おそらく、一つの病院に患者が集中してしまうだろう。すべての患者に治療が施されるよう臨床家も研究家も懸命だったと思う。
 そんな中で発展していったのが、薬物療法と短期療法だと僕は思う。この時代から、薬は改良を重ね、治療の短期化の動きが激しくなるからだ。こうして、精神科を受診すると、そこは、長時間待たされて、3分間の診察を受け、薬を処方されるだけの場と化し、それを経験するだけの場と化していったのかもしれない。

 僕の主張はこうだ。上記のような状況は現代でも続いているのだけど、それは政治の必要から生まれたものであって、人間の必要から生まれたやり方ではないということだ。

 今、日本で活躍している現役の医師や臨床家たちで、アメリカに留学経験があるという人は、まず1963年以降のことだろう。それ以前のアメリカを見たわけではないだろう。すると、次のようなことが起きるかもしれない。
 アメリカは政治の必要から薬物療法と治療の短期化が推し進められていたけれど、本当はそれは政治的な事情によるものなのに、それを最先端の治療法だと信じてしまうことだ。そういうことが起きたかもしれない。そして、それをそのまま日本に持ち帰ったかもしれない。
 もちろん、これが僕の偏見であり、勉強不足によるものであればいいとは思う。もっと当時の資料や歴史をしっかり勉強してからこういうことは言わなければならない。あやふやな知識のまま綴っているので、僕が誤っていることを願う。

 日本の、ある多忙な精神科医は、一日に100人の患者さんを診察すると言う。一日に100人の患者に会おうとすると、一人の患者につきどれくらいの時間が割けるだろうか。仮に、医師が一日に8時間診察したとしよう。現実はそれよりも短いだろうけど、8時間と仮定してみよう。8時間と言えば480分である。それを100人の患者で割ればいいのだから、一人あたり5分弱ということになる。
 このことは1960年代当時のアメリカの状況とあまり変わらないのではないかと僕は思う。

 「大解放」と言うと聞こえがいいかもしれない。患者はできるだけ社会状況の中で適応しながら外来治療を受けるようにする、早期退院させてできるだけ社会と接点をもたせるようにすると言えば、すこぶる素晴らしいことのように聞こえる。
 でも、この「大解放」の本当の狙いは、増大する医療費の削減にあったそうだ。医療費を削減してどうするか、僕の思うに、軍事費に回すのだろう。

 それ以前にも治療の短期化を試みた臨床家たちはいた。フェイレンツィやランクといった精神分析家をはじめ、この方面でのパイオニア的な存在であるミルトン・エリクソンなどであるが、彼らもこの状況を見たとすれば、おそらく、これは自分が目指していた状況ではないと言うに違いないと僕は思っている。
 僕のクライアントの中には精神科にも通っているという人がおられるが、彼らはこの状況に関して不満を漏らしたりする。病院は単に薬を処方してもらうだけの場になっていると彼らは感じているのだ。薬を止めたいと訴えると、薬を止めるための薬を処方されたという笑い話のような状況も僕は聞いたことがある。
 彼らは病院に不満を抱いているのだ。でも、僕は医師を責めるつもりはない。医師もまた政治政策の犠牲になっているのだ。日本はアメリカほど厳しい状況ではないように思うけど、それでも日本も同じようになってきていると僕は感じている。

 ユングやクレペリンなど、初期の精神医学関係の本を紐解くと、若いころに発病して入院した患者が、そのまま退院することなく、老衰で病院で亡くなったといった事例にぶつかる。つまり、死ぬまで退院できなかった患者さんがいたわけだ。
 現代の観点から言えば、これは治療の失敗とみなされるだろう。何十年間も入院していて治癒しなかった失敗例ということになるだろう。そして、そういう病院はランクが格下げされてしまうだろう。
 でも、僕はそんな患者さんたちが羨ましいと思う時がある。その病院も素晴らしいと思うことがある。彼ら患者たちは退院できないまま死を迎えてしまった。精神病が治癒することなく人生を終えてしまった。それでも、病院はそんな患者さんを見捨てなかったのだ。病院は、もはや治癒の見込みのなくなった患者さんであっても、死を迎えるまで彼を抱え続けてきたのだ。一生、病院に抱えてもらえた患者さんたちが羨ましいとさえ思う。彼を見捨てなかった病院も素晴らしいと思う。

 1963年の「大解放」政策は、精神科医療、並びに、精神的な援助やケアという観点から見れば、衰退以外の何物でもないように僕には見える。だから、僕はそれ以前の臨床家、1950年代までに活躍した臨床家が好きなのだ。もう一度、僕たちはあの時代の臨床家に学ばなければならないのではないかと思う。
 そうは言っても、社会や政治の状況の中にある僕たちは、どうしてもそれに巻き込まれざるを得ない。僕は高槻のこの一室で、人間らしい援助の在り方を模索し続けたいと思う。どれだけ時代遅れの人間になっても、それをやっていきたいと、そう願っているのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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