12年目コラム(50):出会った人たち~自分を好きにさせるには
若いカウンセラーさんだった。自己嫌悪のとても激しいクライアントを抱えていたようだ。彼女は、「どうやったら自分を好きにさせることができるだろうか」と、何気なく僕にも訊いてきた。
僕は答えてあげた。ちなみに、僕は女性には親切なつもりだ。「自分にできないことはさせない」という彼はぶん殴りたくなったけど、彼女には親切に僕の答えを与えた。はっきり言う、僕は男女差別をしているのだ。
それはともかくとして、彼女には「そのクライアントが人間になればいい」とだけ答えた。きっと、マンガにすると彼女の周りにはクエスチョンマークが散乱していただろう。でも、僕はこれほど正直な答えはないと思っている。
もし、「自分が好きですか」と僕が問われれば、僕はこう答える。「僕はもうその段階には居ません。そこを卒業して、人間になりました」と。
自分が嫌いとか、好きになれないとか、クライアントは訴える。反対に自分が好きでたまらないと言う人もあるだろう。
振り返ると、僕も自己嫌悪の激しい人間だった。20代後半頃からこの傾向が和らいできて、30歳頃にはそこそこ自分が好きだと思えるようになった。しかし、それだけである。
自己嫌悪が激しかった時代は、自分をもっと好きになれたらどれだけいいだろうかなどと思ったりしたものだ。それは理想とか願望に過ぎなかったけど。結局、自分を好きになっても以前と何も違わないのだ。
僕は今ではこれをはっきり確信しているのだけど、自己嫌悪の激しい人間ほど自分好きな人間はいないと信じている。自分が嫌いだとそういう人たちは嘆く。しかし、この嘆いている自分が好きなのだ。そこに耽溺してしまっているのだと僕は考える。
少し別の表現をするなら、自分が好きだからこそ嫌いになれるのである。僕たちは日常の人間関係でも、いきなり誰かを嫌いになったりはしないのである。かつて好きだった人を嫌いになるのである。ここでは好きと嫌いは、一人の対象において、一体なのである。
同じように、自分が好きでたまらないという人ほど自己嫌悪の塊はいないのである。激しい自己嫌悪があるからこそ、その人は自分好きであることが自己に強制されるのだと僕は思う。
自己嫌悪が緩和して、自分を好きに思えるようになった。しかし、それは思っていたほどの幸福な体験でもなかった。僕には訳が分からなくなった。自分を好きになれたら、素晴らしいと信じていたが、それは以前と何も変わらない体験だった。
何か信じていたものが僕の中で崩壊したような気分だった。一体、人は自分を好きになった方がいいのか、嫌いなまま生きていても差し支えないということなのか、僕の中でさまざまな疑問が噴出するようになった。
結局、30代半ば頃に僕が出した結論はこうだった。自分が好きでも嫌いでも、どちらでもいい、そこに大した違いはないのだから、というものだった。自分を好きになると素晴らしい人間になれるというのは幻想に過ぎない。
そうは言っても、僕はこの結論に納得していなかった。半分程度しか納得しておらず、後の半分は何かモヤモヤしたものとして僕の中に残った。
心理学はここでは何の助けにならなかった。心理学ではいまだに「自分を好きになる心理学」だの「今の自分を好きになろう」などといった類の読み物が出ていたりする。僕にはそのすべてが間違いであるように思えてならなかった。
僕のモヤモヤを解消したのは実存哲学だった。ある時、ハイデガーのことを勉強していた時に、「ああ、そうか」と一気に納得したのだった。
僕が自己嫌悪に陥っていた時期、僕は人間ではなかった。自分を好きになった時も、やはり、僕は人間ではなかった。実存哲学風に言えば、僕は存在はしていたけど、実存していなかったのだ。
では、その頃の僕は何だったのか。「道具」である。僕は僕を道具的存在者にして対処していたのだ。
僕の職場にはハサミが二つあった。僕の場合、ハサミっていうのは、常に必要ではないけれど、手元にないと不便であるという感じの存在である。ちょっと使用したいという時に手元になかったりすると本当に困るものである。そこで、ハサミを二つ用意しておいて、二か所に置いておくことにした。必要な時になったら、近い方のハサミを使用する。そんな風にしてやっていた。
すると、一方のハサミは手にフィットして、軽くてスムーズに動いて、僕のお気に入りになった。もう一方のハサミは手に合わず、重くて、動きが硬いため、僕は嫌いになった。結局、近くになくても、僕はお気に入りのハサミを使うようになり、嫌いな方は最後には処分してしまった。
僕がハサミに対して、こちらは好き、あちらは嫌いという態度を持つ時、それは自分が好きとか嫌いとかいう態度と同じなのだ。好きとか嫌いとかいう感情は道具に対して持つものだ。
この好きと嫌いという感情は、要するに、役に立つか立たないか、自分に合うか合わないかといった感情と同一のものであって、そこに愛情はないのだ。
僕は僕を道具のような存在者に貶める。自分が嫌いになる場面とは、要するに、自分が役立たずだった場面だったり、その場にフィットしない自分を経験した時であったりする。ハサミが役に立たなかったり、手に合わなくてそれを嫌いになるのと、何ら違いはない。
そして、このことが何よりも重要なのだが、自分が好きか嫌いかに囚われていることは、自分を一地点に拘束することになるのだ。そこからどこにも発展していかないのだ。自分が好きになれるか、あるいは嫌いなままでいるか、そういうことに囚われることで、僕は自分自身に関するいかなる選択も決断も考えなくて済む。そういうものを自分から排斥するためには、好き嫌いという永遠に決着のつかない二者択一に取り組んでいればいいのだ。そうして自分に関するいかなる選択も決断も回避していることで、僕は実存者たりえなかったのだ。
僕は自分が好きでも嫌いでもない。ただ、自分は在るとしか言いようがない。自分が在ると認識し、体験できるようになった時、僕は少し実存的になるのだ。別の言い方をすると、自分が好きか嫌いかは、結局は他者の要請なのだ。他者が自分に対して投げかけているところのものに対する反応がその根本にあるのだ。だからそれは他者による要請であって、自分から生まれた要請ではないのだ。
僕が僕の実存に目覚める時、他者の要請はもはや大事なことではなく、自分の中から生まれる要請、存在しているという状況から半ば強制的に僕にもたらされる要請こそが、僕にとって最重要課題となっていったのだ。この時、自分が好きか嫌いかといった次元を僕は超越しているのだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)