12年目コラム(31):愛の実践(5)

 僕は人それぞれ「愛」についての定義を持っていると思う。「愛とはこういうことだ」というイメージを人は有しているって思っている。それでいいと僕は思う。正しい定義を見出そうなんてことは僕は考えない。ただ、その「愛」がどのように実践されるかということの方が大事だ。
 この実践は様々な形を取りうるだろう。すべてを語りつくすことも僕にはできそうにないので、僕が大切だと思うことだけを述べている。耐えること、与えること、優しさと厳しさということを述べてきた。ここでは、抱え、引き受け、そして別れるということを述べようと思う。相手と別れることも愛の実践だと僕は考えている。

 誰かと出会う。出会った瞬間から、いつかその人との別れの日が来ることが確約されている。永遠の関係なんてないからだ。いつか別れる時が来る。親子の関係でさえ、その時が来るものだ。僕たちは別れを受け入れなければならない。相手と別れたくないと思い、相手にしがみついて、それで相手をダメにしてしまうより、別れを受け入れる方が相手のためになるものだ。僕たちはそれに耐えないといけない。

 小さな別れでさえ、辛いと思うことが僕にはある。クライアントに情が移ることもある。要するに僕の逆転移だ。別れたくないと思ってしまう。でも、どこかで別れることを決意しなければならない。この場合、この決断は僕がしなければならない。クライアントにはクライアントの生活があり、人生がある。僕にもそれがある。お互いにそこに戻らなければならない。その現実を否認してはいけないだ。
 クライアントの中にも、やはり辛いと思う人がある。その人は帰りたがらない。僕と一緒に居たがるわけだ。その気持ちが僕にはよく分かるような気がする。でも、もしそこで僕が「いつまでも居ていいよ」と受け入れてしまうことは、お互いの現実を否認することであり、僕の弱さの実現でもあり、それをした瞬間に僕はその人の現実を壊してしまったことになる。だからお帰りいただかなければならないわけだ。別れの瞬間を受け入れてもらわないといけなくなるわけだ。どれだけ辛くても、それをしないといけない。
 時には次回の約束をしっかりしてあげることが必要な場合もある。それでも僕が無理だと感じれば、約束をしないこともある。無理な約束はしない方がお互いのためだという思いもある。
 ただ一つだけ重要なことがある。もし、相手との出会いに意味があれば、僕の生活や人生、存在に何らかの痕跡を残していくだろうし、僕の何かを変えるだろう。それは別れてからでないと気づかないのだ。意味深い出会いを経験し、有意義な関係を築き、それから別れる。自分の生活に戻った時、初めて、その出会いが意味深く、その関係が有意義であったということを僕は知ることになる。その時には見えないのだ

 さて、どんなことにも例外はあるものである。僕が別れを受け入れないといけないと言っているからといって、絶対に人を引き留めないということではない。
 基本的にクライアントはカウンセリングから去っていくタイミングを知っていると僕は仮定している。だから、クライアントが去る時には、クライアントの中でその時期が来たのだというように考える。
 でも、一部のクライアントでは、そこで去ることを僕が受け入れず、もう少し続けようと励ます。まだ、やり残していることがあるからである。僕としては最後まで抱えたいと思っていて、そこがまだ最後ではないという場合である。
 この種の現象は、しばしば自己破壊的な生き方をしているクライアントに見られる。カウンセリングから去って、すべてから孤立してしまう人もある。決して望ましい状況ではないように思われるのだが、彼らはそちらを選択してしまう。つまり、自己破壊的な傾向を抱えている人にとっては、自分を苦しめることになるような選択が、最適な選択であるように映るものである。傍から見ると、それは決して好ましい選択ではないということがよく見えるのに、彼らにはそう見えないのだ。そして、引き留めようとする僕を、あたかも拘束や強制しているかのように、意味をはき違えてしまう人もある。
 引き留めても無駄だと知りながら、こういう例では僕は引き留めたくなる。無駄だということもどこかで分かっているのだ。援助してくれる人の元に、もうしばらくでも留まってみることを、決して彼らは選ばないということを知っているのだ。無駄でも引き留めてみる。これは別れを受けいれていないのではなくて、彼らの選択が受け入れられないということなのだ。

 不本意な別れというものもあるのだけど、どんな別れであれ、辛いことに変わりがない。これまでどれだけそういうことを経験してきただろうか。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

PAGE TOP