12年目コラム(46):OP7「いなければいいのに」
(1)
クライアントはしばしば不幸な子供時代を回想して、「自分がいなければいいのに」
という感情を抱いていたことを報告する。
そうした感情はさまざまな言葉で表現される。「自分がいなければよかったのに」という表現をするクライアントもあれば、「消えてしまいたかった」と表現するクライアントもある。表現は違えど、そこには共通する意味と感情があると私は仮定して論を進めることにする。
本論において、私はこの感情と言葉の意味を解いていきたいと思う。
私自身も子供の頃、大体10歳頃から13歳くらいまでの間だったと思うが、自分が非存在になれたらと願っていた。
他のクライアントたちと同様、これは「死にたい」という気持ちの表れではない。私の場合、それは私という人間が初めから存在していなかったらいいのにという意味だった。
それが「死にたい」という感情ではなかったことは今でもはっきり覚えている。もし、私が死んでも、私が存在したという痕跡や記憶は残ってしまうわけであり、それが私には許せない思いだった。何も残らない、あたかも初めから存在しなかったかのような存在になりたいと願っていたのだ。
もし、このような表現をするクライアントを目の前にして、セラピストがこのクライアントは自殺願望があったのだと理解してしまったとすれば、それはクライアントに対する理解を大きく損ねてしまうことになる。そして、私の勘では、この誤解は、後に修正することができないような関係の破綻をもたらすだろうと思う。なぜなら、その言葉で表現されている感情や意味はクライアント自身にも明確ではなく、尚且つ、このセラピストにそれを理解して、明確化して欲しいという気持ちをも有しているからである。
つまり、そこはクライアントが是非とも理解しなければならない鍵があり、それに対してセラピストが理解し損ねてしまうことは、その関係において、致命的なことだと私は考えているのである。
(2)
では、「いなければいいのに」とか「消えてしまいたい」とか「非存在の存在になりたい」とクライアントが表現する時、私たち臨床家はその言葉をどのように解釈し、理解するべきであろうか。
この問題を「存在する者の非存在の問題」と名付けようと思う。ここには非存在への憧憬があるように思われるからだ。
非存在であるということは、サルトルによると、存在が期待されているということを前提とする。つまり、その期待されている存在が見出されない時、不在の現象が前面に現れてくるのである。
従って、非存在であることを憧憬するかのような表現をする時、そこには存在すべき存在が期待されていたと考える。
つまり、「私なんていなければいいのに」という表現は、「こんな私ならいない方が良かった」という意味に解しうるわけであり、それは同時に、「別の私がここに居るべきだった」と、そこに存在すべきその人の像が在るわけである。
ここでこの関係を整理すると、次のようになるかと思う。
「存在すべきでない私―現実の私―期待されない私」
これが一つのセットのようなものである。それと対を成すかのように次のセットが暗に示されている。
「存在すべき私―現実の私でない私―期待される私」
ここで理解できることは、「期待される私」が存在しないために「期待されない私」は消えて、いなくならなくてはならないという感情が生じてしまうということである。
更に不幸なことに、現実のその人は「期待される私」の方ではなく、「期待されない私」の方を生きていかなくてはならなくなっているということである。ここで、その人は自分の存在を耐えがたいものとして体験してしまうのだ。
その人が現実に生きていく中で、その人が嫌というほど思い知らされてしまうのは、自分が「期待されない自分」であるということである。自分が「期待される自分」ではないということをありありと見せつけられてしまうという体験を繰り返してしまうのだ。そこに、こういう感情を体験した人たちの苦悩があると私は思う。彼らは存在の基盤を揺るがされてしまう。
彼はまず自分を分裂させなければならなくなるだろう。現実の「期待されない自分」を「期待される」架空の自分に合わせなくてはならなくなるからである。
このことは彼をして彼自身であってはならないという命令となる。自らその命令を発してしまうことになるだろう。
しかし、彼がいくら努力したとしても、彼は自分が「期待される自分」ではないということを知ってしまう。自分が「期待されない自分」であることを繰り返し証明してしまうのだ。彼にとって、これほど耐えがたい体験はないだろう。
恐らく、彼の自己同一性はこの感情のために達成されなくなるだろう。彼は自分ではない自分に同一化を達成しなければならなくなるからである。
(3)
では、ここで次のような問題が浮かんでくる。「期待される私」とか「期待されない私」とか言う時の「期待」は、そもそも誰の「期待」だったのだろうかという問いである。
彼が自ら期待しているのでないことは明らかである。仮に彼が自分で自ら期待しているというように体験されているにしても、最初からそうであったはずはない。恐らく、初めは他の誰かの期待であったに違いない。
誰かが彼に「期待」をかけているはずなのである。彼はその「期待」に応えられないでいるわけだ。この図式が最初に在ったはずだと私は考えている。(中絶)
(解説)
どうして中絶したか、理由は思い出せない。他のことが忙しくなったのかもしれない。そういう形でOpusシリーズは宙ぶらりんになることが多かったから。
本項は、「期待される自分」をいかに放棄して、「期待されない現実の自分」を受け入れるかというテーマであったように思う。その際に、「期待の主体」ということが問題になる。中絶した個所は、最初の「主体者」を取り上げようとしたところである。これは基本的には親であり、家族であり、幼い頃に経験した大人との関係で生まれたものである。この過去の現実の(もしくは非現実の)第三者が彼に「期待」をかけるわけである。彼はこの「期待」と一体化してしまうが故に、「期待」から外れることはどんな些細な事柄であれ、彼の不名誉になってしまうのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)