12年目コラム(41):Op.2「逆転移」
臨床の場面であれ、日常生活場面であれ、私たちは常に誰か他の人と会う。人間社会の中で生きている限り、このことは当然であり、避けることができないことである。
私の目の前にいる人は、私になにかしらの影響を与える。何ももたらさないという相手もいないことはないが、大なり小なり、私たちは対面する相手によって何らかのものがもたらされる。
そこでもたらされるものは、私の中の何かを活性化する。感情であったり、記憶であったり、気分であったりする。転移とはそういう現象の一部を指して言う言葉である。
まず、相手が私の中の何かを揺さぶり、何かを活性化する。そして、特定の感情を相手に対して抱く。その感情は私の行動を規定する。それは相手にもなにかしらのものをもたらしたり、活性化させたりする。そうして私と相手との関係はある特色を帯びるようになる。さらに、これはパターン化し、継続していく傾向がある。こうして相手との関係において、一定のものが生み出される。
私たちの対人関係とはそのように構築されていくものだと私は考えている。
例えば、ある人と会っていて、私の中に「赤色」が生じたとする。この「赤色」は私の気分や感情、行動を「赤色」に傾斜させていく。相手も同じように「赤色」が活性化され、規定されるようになるかもしれない。その時、私と相手との間には「赤色」が生み出される。そして、「赤色」の関係を私は相手と築いていく。この「赤色」は元々私に属していたものか、相手に属していたものかは、深く反省してみないと分からない類のものである。こうしてお互いに触発し合うような形で、内面が活性化していくものである。
転移とは、自分の中に生まれたある種の感情を相手との関係において再体現することである。
似たような概念に投影というものがある。両者は一部では共通する現象である。両者の違いを述べるとするならば、投影とは何でもありなのだ。誰に何を投影してもいいという趣があるわけだ。一方、転移の方は、特定の対象に特定の対象を投影しているということである。少し拙い例を挙げて述べてみよう。
仕事を終えて、夜中、あなたは帰路についている。あなたは近道の公園を横切ろうとする。公園に空き缶が捨ててある。電灯の光をその空き缶が反射している。それを見て、あなたは無性に腹が立ってきて、思わずこの空き缶を蹴飛ばしてしまう。あなたは何となく胸の内が収まったような思いがしている。
あなたはなぜそのようなことをしたのか理解できないかもしれないし、なぜそれで胸の内が収まったように体験したのかの説明もつかないかもしれない。でも、よくよく内省してみると、その日、あなたは上司からこっぴどくお叱りを受けていたとする。できることなら、その上司をやっつけたいと思っていた。でも、立場上、あなたはそうすることもできず、歯を食いしばってその感情を抑えなければならなかったことを思い出す。あなたは一つの共通項を見出すかもしれない。空き缶の光の反射具合がその上司の頭の反射具合を連想させたということを。この時、その上司に対する感情と行動を、その空き缶に対して表現し、実行したことになる。上司に対しての感情を空き缶に投影したということになるわけだ。
投影には、このように、元々の相手が誰であっても構わず、投影される対象も何でもよくて、人間であろうと物であろうと構わないということである。転移の方はそうはいかない。
転移はまずその人の過去において重要だった他者の存在がある。それが元々の相手であったわけである。その人との間で体験したこと、正確に言えば体験し損ねた感情を、現在において重要な他者に対して向けることである。ここにはその人にとって「重要な他者」という限定が付加されているわけだ。
逆転移という言葉も、先ほどの転移の説明と同じものを指している。正確に述べるなら、そこには転移という現象しかないわけである。臨床の場面においてのみ、転移という現象は、転移と逆転移に分けられる。
クライアントの側の臨床家に対する転移はそのまま「転移」と表記される。臨床家側のクライアントに対する転移は「逆転移」と表記される。誰にその転移が生じているかという違いだけである。
この転移―逆転移という現象の発見はフロイトによって概念化されたものである。こういう現象自体は人類はずっと経験してきたのである。フロイトはそれを「転移」として概念づけたのである。そして、「転移―逆転移」の発見は、精神分析を大きく動かした。それはクライアントの無意識に何があるかという無意識の内容を解明していくことから、転移を分析し、解釈していくという方向転換をもたらしたのである。
フロイトが逆転移を取り上げた時、それは克服されなければならない問題だとされた。逆転移は治療に反抗的に働くものとみなされたからである。そのため、分析家は教育分析を受けることによって、自分の転移を処理することを身に着ける必要が生じたのである。
フロイトの理論はしばしば闘争的なニュアンスがあり、逆転移は克服されなければならないという命題もその傾向を示しているように私は思う。フロイト派以外の臨床家たち、たとえばユング派の人たちなどは逆転移の治療的な意義を論じているが、私もその立場に立つ。逆転移は武器にも凶器にもなり得るものである。
私たち人間が歴史的な存在である以上、転移は避けられないと私は考える。今の私は過去から連綿と続いてきた私であり、これからも続いていく私である。その過程においては、重要だった他者の存在があり、重要だったがために、私の歴史において影響を及ぼし続ける。同じく、その対象が私にとって重要であったが故に、私はその対象を取り戻したいと願うだろうし、再体験したいという思いを抱くであろう。そして、そのような対象が目の前に現れたとすれば、恐らく、私は意識することなく、転移を生じさせてしまうだろう。
転移は避けられない。ただ、私はそれが転移であるということを知っているだけである。過去の私にとって重要だった他者のイメージが活性化されたとしても、過去の対象と現在の目の前にいる対象とが「同じではない」ということを私は認識している。その区別がついているというだけである。
でも、この区別がついている限り、私は過去の重要だった対象との間で未経験だった事柄を、目の前の対象を通して実現することを断念できるのだ。
過去の重要な他者というのはまずその人の親である。そこで私が母にもっと愛されたかったと望んでいるとしよう。目の前に私の母イメージを活性化する女性がいるとする。現実の対象と転移対象との区別を私が意識化している程度に応じて、私はその女性に「母親」を求める度合いが少なくなる。その女性が私の母親ではないという認識を深めるにつれて、私はその女性に「母親」を期待することを断念できる。断念されるのはこの期待であり、過去の重要な他者の存在ではない。
しかし、こうした洞察というか認識は、私に何をもたらすだろうか。私は母の愛情を求めている、でも、目の前の女性は私の母親ではないということを洞察している。私はこの女性に母親の愛情を期待することを断念する。その結果、私に何がもたらされるのだろうか。私は母の喪失を再体験してしまう。結果的にその女性とは良好な人間関係を築くことができるとしても、私は自分の願望を断念しなくてはならない。かつて望んでいながら得ることができなかったものは、もう取り戻せないのだという現実を私は突きつけられてしまう。
私が自分の転移に気づくということは、常に私にある種の苦しみをもたらす。だからそこは目をつむっていたいという気持ちが生じる。つまり否認したくなるわけだ。現実のその女性を否認して、その女性にはいつまでも私の母親イメージのままでいて欲しいと願うだろうし、いつまでも母親にしておきたいと願うだろう。きっと、そうした方が私にとっては心地いい体験になると思う。ただ、その心地よさは、私の精神的な成熟を犠牲にして得られているものである。転移関係を無意識に続けていくことは、その女性との関係において、私は小さな男の子のまま留まることを意味するからである。
一時的にその段階が必要であることは否定できない。臨床的にはクライアントはその時期を経なくてはならない。しかし、いつかそこから抜け出していかなければならないものである。そうでなければ、その人は親離れできないまま成長していかなくてはならなくなるからである。
人間が自分の孤独に耐えられるに従って、私たちは親を必要としなくなる。そこまで自我が強化されるまで、転移関係はその人を助けることになる。
転移関係、並びに転移感情には、その表れに応じて「陽性」と「陰性」とに区分される。陽性の転移は相手の愛情を求めたり、子供のように相手に依存したりといった傾向で現れる。陰性の転移は相手を憎悪したり、嫌悪したりといった傾向で現れる。
ここでは両者の区別はそれほど取り扱わないことにする。なぜなら、その転移が陽性であろうと陰性であろうと、その根底には同じものが横たわっているからである。そこには常にその人にとって過去の重要な他者の存在があるわけであり、重要な他者といい関係を築きたいという願望があるはずだからである。私はそう理解している。
例えば、相手から愛情を求めていながら、自分の望んでいるような愛情が得られないとすれば、それは陽性転移に結びつくだろう。相手から愛情を求めていながら、裏切られたりしたというような場合、それは陰性転移に結びつくだろう。根底にある感情、願望は、陽性とか陰性とかいう区別に関係なく、共通しているものではないだろうか。
それが陰性の転移であれ、そこには相手との間で良好な関係を築きたいという願望が潜んでいるものと私は思う。陽性と陰性という表面上の区別よりも、相手のその願望に臨床家は気づく必要があると私は考える。そして、その願望自体は何も「病的」なものではなく、むしろ健全な願望なのである。(中絶)
(解説)
どういう経緯があって本文を書き始めたのかまったく覚えていない。おそらく草稿というか、下書きの段階で、ここからサブテーマを分けて、加筆訂正していこうとしていたのだろうと思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)