12年目コラム(40):Op.1「臨床の仕事」
例えば、あなたの目の前に「境界性人格障害」と診断されたような人がクライアントとして座っているとしましょう。この問題を抱える人は、相手―世界―自分自身が一変するという傾向を有しています。
今、そのクライアントはあなたと良好な関係を築いています。面接はとてもスムーズに行っているようにあなたには見えます。あなたはある種の心地よさを感じているでしょうし、相手がとても良くなっていっていると感じているかもしれません。クライアントもまた活き活きしていて、魅力が増していることが分かります。あなたはこのまま上手く終結するだろうと期待するかもしれません。
しかし、何が起きたのか、それまであなたを信頼してくれていたそのクライアントが一変して、いきなり激怒し、あなたを攻撃し始めるのです。その突然の変貌ぶりに、あなたは狼狽えるかもしれません。一瞬、あなたは自分が何か間違ったことをしたのではないかと不安に襲われることでしょう。あなたは訳が分からないまま、クライアントの攻撃に晒されます。それは今まで会い続けてきたその人とは別人のような激しさです。
もし、熟練した臨床家であるならば、そういう時は適切な解釈をその人に投与するでしょう。でも、あなたはすでに余裕を失ってしまっています。あなたは相手を落ち着かせようとするけれど、あなたが働きかければ働きかけるほど、それは火に油を注ぐような結果にしかならないのです。あなたは自分の思いが相手には伝わらず、そればかりかそれが相手に歪んで受け取られてしまうことに耐えきれない思いがするでしょう。
そのクライアントはずっとあなたを攻撃し続けます。それは一向に収まる気配を見せません。その内、あなたは自分がとてもひどいことをしてしまったような、自分が悪になってしまったような嫌な気分に襲われるでしょう。あなたは絶望的な気分でクライアントを見ています。何もできないという無力感にあなたは襲われ始めています。
ひとしきり怒りを発散したクライアントは、怒りをくすぶらせながら、あなたを傷つけるような捨て台詞を吐いて、面接室を出ていきます。あなたは何が生じたのかが理解できず、混乱したままその場に佇んでいます。あなたはすっかり打ちひしがれ、これまで積んできた経験や自信が瞬く間に粉砕してしまったかのように体験しているでしょう。
およそ臨床家で、このような体験をしたことがないという人がいるとすれば、私はその人を信用できません。臨床家は、多かれ少なかれ、上記のようなクライアントに徹底的に粉砕されるかのような体験をするものだと私は思うのです。
そういう経験をして、あなたは臨床の道をこれ以上進むことを断念することもできます。実際、そうしてもいいのです。あなたは自分が傷つけられることから身を守らなくてはいけないし、これ以上傷つけられないようにその道から離れるというのも一つの防衛の手段であるからです。
でも、もしかすると、あなたは深く反省し、なぜあの人が急にあんなに怒り始めたかを考えるようになるかもしれません。その場面を振り返り、面接のテープを聴き直したり、これまでの記録を読み直したりするかもしれません。文献をいくつも紐解いてみるということをするかもしれません。同僚やスーパーバイザーに相談するかもしれません。研究会や学会にこの事例を提供して、検討してみるかもしれません。そのクライアントはもうあなたには会いに来ないかもしれません。二度と会うことがない人かもしれません。それでもあなたはその人との間で体験したことを考察し、内省し、洞察を深めようとするでしょう。私はここに断言するのです。あなたがそれら一連のことをしている時、あなたは立派に臨床の仕事をしているのだと。臨床の仕事とはそういうものなのです。
臨床の仕事とは、クライアントを「治して」あげることでもないし、クライアントを「元気にしてあげる」ことでもない。
臨床とはその字の通り「床に臨む」ことである。ベッドサイドに付き添うことなのだ。あなたは病人のベッドサイドにてどういうことをするだろうか。病人に鞭打って何かを訓練したりするだろうか。無理矢理処置を施したりするだろうか。おそらく、あなたはそんなことはできないだろう。あなたはただ相手に付き添い、相手に付き合う。それだけをするのではないだろうか。そして、それこそ臨床の基本的なイメージなのだと思う。
そのイメージが根底にあって、尚且つ、臨床家はクライアントに対してある種の施しを与える。それはクライアントの幸福を願ってなされるものである。それがクライアントにとって苦痛となる事柄であっても、臨床家はクライアントの幸福と利益のためにそれをするのだ。クライアントを苦しめる目的でなされるものではないのだ。
もし、臨床家がクライアントに苦しい思いをさせたくないからという思いだけで、クライアントを骨抜きにしてしまうほど甘やかしてしまったり、ただひたすら元気づけるだけのチアガールのような立場に陥ったとしたら、それはクライアントにとって一層望ましくない結果をもたらす。この臨床家はクライアントの幸福と利益を考慮していないのだ。ただ、その場限りの居心地の良さをクライアントに提供しているに過ぎない。その臨床家は別の目的を有しているのだ。例えば、事なかれ主義で通そうとか、対立や苦しみを見たくないとか、あるいはこのクライアントを手放したくないからとか、そういう他の目的や動機に裏付けられているのである。
その「病」が身体のものであれ、心のものであれ、「治療」はクライアントにとって一つの試練となる。臨床家にとっても同じである。それを避けるだけでは、それは「治療」とは言えないのだ。
病人のベッドサイドにて付き添うイメージを基礎にしながら、クライアントにとって苦しいことも敢えて試みなければならないこともある。それがクライアントの幸福と利益を願う思いに裏付けられている限り、その試みは臨床的に意義がある。
相手にどういうことを伝えたらよいかで初心者は悩むものである。言い回しを工夫したり、語彙を増やしたりする努力は結構である。でも、あまりにマニュアル化して、一律的に伝えるのは望ましくない。つまり、こういう場面ではこう言うとか、こう返されたらこう答えるなどというように決めてしまわないということだ。それをすると、相手はあなたから「人間」を感じられなくなる。
苦しんでいる人は孤立してしまうものである。誰かに居て欲しいと思うし、自分のことを分かって欲しいと思うだろう。その人は「人間」を必要としているのだ。だから、マニュアルで接して欲しくないだろうと思う。相手はあなたという「人間」を身近に体験したいものだと私は思う。
あなたは「何を言うか」の前に、相手に対して一人の「人間」でいなければならない。人間的に接しなくてはいけない。苦しんでいる人が一番必要としているのはそれだからである。あなたが一人の人間として、人間的に応じている限り、クライアントはあなたが一緒にいてくれると体験するものである。
その上で述べておかなければならないことがある。あなたは相手にどういうことをどういう言い回しで述べても、それは基本的に構わないことだ。あまり効果を狙いすぎない方が望ましいと私は考えている。ただ、あなたの発する言葉の底にある部分が重要なのだ。どういう動機からその応答があなたから出てきたのだろうかという、その動機の部分だ。
純粋に相手を援助したいという思いで発せられた言葉はどんなものであれクライアントの助けになる。その言葉が、例えば文法的に間違っていようと、もっと効果をもたらすような表現ができるものであろうと、言葉遣いが一部不適切であろうと、それらはさほど重要なものではない。あなたがどんな気持ちでその言葉を発したのか、クライアントはその気持ちの部分を感じ取るものだ。
あなたはただ純粋でいるように努めていればいい。そして、純粋に相手を援助したいという気持ちを持つように日々を務めるだけでいい。技法や理論はその後の話だ。私はそう考える。(中絶)
(説明)
まず、最初に、私の中にある「臨床」のイメージを明確にすることを考えた。読者を初心の臨床家を見立てて、その上で、私の見解を伝えるという形をとっている。この続きにどんなことを書こうとしていたのか、今では忘れてしまった。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)