12年目コラム(29):愛の実践(3)
人間はそれぞれの内に憎悪を抱えている。だからこそ愛の能力を伸ばしていくことが個々人に求められる。僕も例外ではない。そして、その能力は実践されなければならない。もし、僕が少しでも愛情能力を伸ばし、それを実践できるのであれば、僕はそれを教えることもできる。人によって考え方は異なるが、僕は愛は教えることも学ぶこともできると考えている。
では、愛の実践とは何であろうか。これも人によって考え方が異なるだろうと思う。ある男性は「愛する人を守るために闘えるようにならなければならない」と言って、自衛隊に入隊した。彼はそれを愛だと考えているわけだ。僕なら「愛する人を守るために、敵と和解できるようにならなければならない」と考えるだろう。敵と戦うことも愛だと考えることもできるし、敵と和解することも愛であるということだ。人それぞれの考え方があるものだ。僕は僕の考え方をここでは綴る。それが正しいかどうかは二の次である。
愛とはどういうものかということは、その実践から考える方が分かりやすいと思う。その実践もいくつかある。本当は全体的に見る方がいいのだけれど、便宜上、僕はそれを個別に述べようと思う。
まず、人間への愛とは人間に耐えることだと僕は考えている。相手を受容するとか、尊重するとか、理解して認めるとか、そんなふうに言うこともできる。でも、ある人を受容し、尊重し、理解して認めるというのは、根本にその人に対して耐えることが含まれている。
つまり、相手の中にこちらが受容しがたいものがある。それでもそれを受容しなければならない時、僕は忍耐を課せられるのだ。尊重できない部分が相手にあっても尊重していこうとする時も、理解できなくて容認しがたい何かを理解して認めなければならない時も、僕はそれに耐えることが求められる。
言い換えれば、相手に最も耐えている時、僕は相手への愛を最も実践しているのだ。もっとも、耐え方ということも考えなければならないことなんだけど、ここではそれは置いておこう。
次に、愛とは与えることである。人へ与えることが愛だと思う。これはけっこう重要なことなので、少し分量を割いて述べよう。
ここで与えるということは、何も物質的なものを指しているのではない。自分の存在や時間、空間、さらには自分の体験や思想を与えるということも含まれている。与えても、相手がそれを受け取るかどうかということは別の問題なので、ここでは取り上げないことにする。
僕のサイトがどうしてあんなに文章ばかりのゴチャゴチャしたものになっているのかというのも、僕が自分の経験したことや見たこと、考えたことなどを与えようとしているからなんだ。僕のこの意図が成功しているかどうかは別だけど、僕は惜しみなく与える準備ができているし、それのできる人間であるということを証明したいと願う。できることなら、このサイトを見てくれる人にもそこが感じられてくれたら、僕としては本望である。
こういう批判も出てくるだろう。与えると言っておきながら、受け取っているではないかと。確かにそうである。お互いに何かを与え合う関係だとすれば、僕は相手に与えるだけではなく、相手から受け取っているものもある。自分の利益をそこで得ていることを僕は否定しない。
つまり、与えるだけでまったく受け取らないというのは、愛の実践でもなく、愛他行動でもないのだ。独りよがりなだけなのだ。言い換えると、それこそ独善なのだと僕は考えている。
本当の愛は、与えることが受け取ることを上回っているということなのだ。受け取る以上に与えることを望むということだ。まったく受け取らないということではないのだ。
うまくいかない夫婦を見ていると、その逆をやっている人がいることが分かる。時には夫婦の二人ともそうしている例もある。つまり、相手から受け取ることが、相手へ与えることより上回っているという、そういう在り方をしているのが分かる。
夫婦関係がうまくいかないということで来談されていたある女性は、ちょっとした雑談の際に、「寄付する人の気持ちが分からない」と言った。どういうことなのかと尋ねると、彼女はそういう行為は単に自分が目立ちたいだけなんだと思うと答えた。確かにそういう人も中にはいるかもしれないけど、そういう人ばかりでもないのではないかと思う。僕は彼女に、与えることが自分の幸せになるという感覚について述べてみたけれど、案の定、彼女はそんなの全然わからないとおっしゃった。
彼女は夫婦関係で自分が与えられているということを認識していないようだった。与えてもらえているのだけれど、彼女はそれは当然のこととして認識していた。だから自分が夫から与えられているという感覚を持っていないのだ。そればかりか、与えられても、それは当然の範囲なので、もっと与えてもらうことを彼女は期待してしまうのだ。それ以上に与えてもらえないと、自分が与えられたという体験をできないようだった。そして、自分の望むように与えてくれない夫を冷酷だとみなしているということなのだ。他の奥さんはもっと与えてもらっているとも彼女は言うのだけど、彼女が見なければいけないのはそこではなく、それが当然の範囲と彼女に思われていても、確かに自分は与えられ、受け取っているという事実の方である。
従って、彼女はいつも自分の「不足」を体験してしまうのだ。本当は豊かに与えられているのだけれど、いつも「足りない」と体験されてしまうのだ。彼女が苦しいのはそこなのだ。自分だけが与えられないという体験を繰り返してしまっているのだ。それは彼女の子供時代から継続している体験だった。与えてくれそうな男性と一緒になったのだけど、結局、この夫も与えてくれないのだと、彼女にはそう体験されているわけである。
実は、この女性は夫をカウンセリングに送り込んだのだ。夫のカウンセリングを重ねていく中で、彼女が現実に受けに来たのであるが、彼女はそれが自分の問題であるということに気づくことなく終わったのだ。彼女の問題とは何か、一言で言うとすれば、それは「愛情能力が不十分だ」ということになると思う。与えてくれることが愛だと彼女は信じているようなものであるが、この愛は幼い子供が望む種類のものである。彼女はそこから抜け出ていく必要があるのだ。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)