12年目コラム(28):愛の実践(2)
人を愛することができること、その愛を実践すること。僕にとってこれほど難しい課題はない。僕の中に憎悪感情があるからだ。
誤解のないように言っておきたいのだけど、憎悪感情のまったくないという人は一人もいない。多かれ少なかれ、人はその種の感情を秘めているものだ。もし、それがないという人がいれば、その人には幼児期があったのかと、僕は疑問に思う。いつか、そういう話も展開したいと思うが、ここではそこに深入りしないでおこう。
愛と憎しみとは、よく表裏一体の関係のように言われることもあるけど、僕はそんなことはないと考えている。両者はまったく別の感情であり、別々の起源を持ち、別々に発達し、別々に表現されるものだ。ただ、ある特定の場面においてのみ両者が関係するのだ。
僕は、愛と憎悪は水と火に喩えるのがわかりやすいと思う。
水と火はまったく別の性質のものである。まったく異なる現象である。その用途も異なる。両者が混同されることはまずないのである。
でも、水は火を消すことができる(消火)。同じく、火は水を消すことができる(蒸発)。この場面においてのみ、両者は関係づけられるのだ。
もし、大量の水を蒸発させようとすれば大量の火力が必要である。大量の火を消火するには大量の水が必要となる。
また、火が脅威になるのは、火そのものからもたらされる場合だけではなく、むしろ、水がない、もしくは水が足りないという状況ではないだろうか。洪水や浸水の時、水が流れていかないということよりも、火(熱)がないという状態(例えば、さらに雨が降るとか)、そういう状態の方に脅威を覚えるのではないだろうか。
愛と憎しみも同じような関係性を有していると思う。
憎しみの炎を燃やし続ける人は愛情能力が消失してしまう。大量の憎悪を消火しようとすれば、それ以上の愛情能力を育てることが求められる。僕はそう思う。
自己を憎む人は自己愛を育てていかなければならないし、他者を憎む人は対象愛を育んでいかなければならない。憎悪感情を抱えている場合、愛情能力を育てて伸ばしていくことは難しい。憎悪の炎を燃やし続けている方が、はっきり言って、ラクだし、簡単である。でも、憎悪はいずれ自己を棄損し、対象を破壊することになる。困難であっても、愛を伸ばす方が価値のあることだと思う。
憎悪感情に関して、誤解をしている人があるようなので、この場を借りて述べようと思う。
自分の中にある憎悪感情は、表出されなければならないと感じている人もある。それは間違いとは言えない。しかし、その表出は昇華されたものである必要がある。感情の表出とか表現ということと感情の発散とはまったく違った行為である。
そして、憎悪感情はいつか燃え尽きると信じて、燃やし続けようとしてしまうという誤りもある。僕も、自分の過去を振り返ると、そういうことをしていた時期があったように思う。憎悪を燃やし続けて、こうしていればいつかこれが燃え尽きるだろうと期待してしまうのだが、これは必ず期待外れに終わる。というのは、その憎悪の起源がいつまでも生き続けているからである。
これは、言うなれば、火でもって火を消そうとする試みである。あるいは、火を消すのに、水ではなく、ガソリンを使うようなものだ。その目的(消火)のために本当に必要なものが持ち込まれないのだ。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)