12年目コラム(27):愛の実践(1)

 このコラムは、資格の話から始まって、それを目指すことになった動機という方向に目を転じた。この動機論から因果論、意味論、目的論へと話が進んでいった。思いつくままに書いていくと、そのような展開になってしまった。まだまだ説明不足なところを感じているけど、この辺りで少し話を戻そうと思う。
 少なくとも二つのことを置いてきたように思う。一つは僕の動機ということだ。もう一つは人はその人の中に必要なものをすべて持っているという観点だ。この二つに関して僕の見解を述べようと思う。それが終わると、ひと段落ついて、いわば、このコラムの第1部が完結すると思う。

 僕は人を助けたいとか人の役に立ちたいという動機がそれほどない。もちろん、全くないわけではないけど、そこはそれほど重要ではない。僕は自分のために仕事をしたいと思うし、仕事以外のことに関しても、すべて自分のためにしたいと思う。そうでなければ続けられないと思うからだ。純粋に他人のために行うことは、ただの苦行になってしまうような気がするし、実際、そのような活動は長続きした試しがないのだ。
 理想を言えば、自分のためにやっていることが、そのまま他の人の役に立つというあり方が望ましいと思う。意図的に役に立とうとかいう気持ちがなく、純粋に自分のためにしていることが、知らず知らずのうちに誰かの役に立つというような感じがいいと思っている。後で述べるけど、これは愛だと思う。
 愛には二種類ある。自己愛と対象愛だ。フロイトは自体愛から自己愛へ、自己愛から対象愛へという筋道を見ていたのだけど、後にコフートは自己愛は自己愛で育っていくという見解を打ち出すようになり、これに関しては、僕はコフートに賛同する。自己愛を満たし、同時に対象愛も達成する、これが理想なんだ。

 僕自身が愛を実践できる人間になること。僕はそれを仕事を通して達成したいと思うし、僕のその動機がそのまま仕事をする動機となっていること。あくまで理想の話だけど、これほどの自己一致はないと個人的には思う。
 この愛は、自己愛と対象愛に関わらず、人間愛である。その人間愛を自己に向けることが自己愛であり、対象に向けると対象愛ということになる。ひどく簡略化した定義だけど、僕はそのように考えていて、自己と対象と、向かう先が異なっていても、同じ種類の愛だと捉えている。
 従って、この愛は恋愛の愛ではないということにも注意を喚起しておこう。人間愛や兄弟愛、友愛に近い愛のことを僕は言っているのだ。そこは誤解のないようにお願いしたい。

 フロイトは、健康な人格、成熟した大人の条件として、「愛することと働くこと」と答えた。僕はこれほど簡潔で的を射た表現を他に知らない。
 ただ、フロイトは両者を並列して述べてしまっている。あたかも別個の二つであるかのような印象を受ける。僕はそこは納得がいかない。
 愛することが働くことの中に生きており、働くことの中に愛が実践されていなければならないのではないかと、僕はそんなふうに考えるのだ。両者は切り離せないものではないかと思う。

 確かに、僕が心理学を勉強するようになったのは、自分を知るためであった。僕の中に謎がある。だからそのために勉強を始めたのだ。これが根本にある動機であることは認める。ただ、その謎に取り組んでいく中で、愛の実践ということが僕のテーマとしてあることが見えてくるようになった。愛の実践ができる人間になりたいと思うし、その場を仕事に求めているということである。
 援助職に限らず、どのような職種であれ、その人の仕事の中にその人の愛の実践が感じられるなら、僕はその人から学びたいと思う。仕事の技量よりもその姿勢の方が大事だと僕が考えるのもそのためである。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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