12年目コラム(17):動機論(4)
人がある行為をする時には、その行為をする動機がある。その動機は、その人の欲求や衝動、さらには将来の目標や困難とも関わっている。
しかし、動機と行為との間に、常に整合性があるとは限らず、時にはズレが生じていたり、動機と正反対の行為をしてしまうということが人間には生じる。ここを理解するのが難しい。
ある問題を抱えた娘さんのことだ。僕がお会いしたのはそのお母さんだった。間接的に伺った話であって、僕は直接その娘さんにお会いしたわけではない。
彼女(娘)の問題は中学生頃から見え始めた。どこか周囲のクラスメートたちと違った子であった。これは本人も親もなんとなく感じていたようだった。高校生になると、その違和感、異質感はより大きくなっていって、彼女は完全に疎隔する。大学は中退し、アルバイトでも適応ができず、以後、ずっとひきこもりの状態になっていた。
母親は娘を何とかしたいと必死である。医師やカウンセラーの門戸を叩き続けていた。その中で僕の所にもお見えになられたということだ。
娘は、普段は大人しいのであるが、怒ると手が付けられないという。ある時、娘がカッとなって、暴れ、母親に暴力を振るうという出来事が生じた。見かねた父親は二人の間に入って、「殴りたいならお父さんを殴れ」と娘に言う。娘はワッとなって、父親をボコボコに殴り続ける。娘はそのまま精神科へ送られる。父親も大けがをしている。数日後、落ち着きを取り戻してから娘は言う。「あの時のことは、はっきり覚えていない。母に暴力を振るっている時には、『こんなことをしてはいけない、したくない』という思いがあったのにどうすることもできなかった。父親が出てきてから、一切が分からなくなった」と、そういう述懐をしたそうである。
母親がこのエピソードを話した時、「娘さんにどういうことが起こったのだと思いますか」と尋ねてみた。母親は「病気のせいなんです」と答えただけだった。ここには因果関係を見て取ることができる。娘が暴れるのは病気が原因だという図式である。因果関係については次コラムから取り上げることにする。
さて、この娘さんは、母に暴力を振るいたくないと思っていたのだ。しかし、行為としてはその正反対のことをしてしまっているのだ。あたかも、本当は反対のことに動機づけられているのに、磁石に引きつけられるように、抗うこともできずにそうなってしまうかのようだ。
この娘さんは、少なくとも意識の上では、自分は暴力を振るうような人間ではないと信じているのだと思う。でも、母に暴力を振るってしまう。その時、彼女は自分がもっともなりたくないと思っている自分になってしまっている。自分はそんな人間ではないと抵抗すればするほど、そんな人間のような行為をしてしまっている。覚えていないのは、それが彼女にとって耐えがたい経験となったからではないだろうか。
ここで父親が出てくる。一体、この父親は何をしたかということだ。
彼女は自分が暴力を振るうような人間ではないし、そんな人間でありたくないと願っている。そう願えば願うほど、正反対の行動に向かってしまう。そこに父親が出てきて、あの一言を言うわけである。「殴るのなら俺を殴れ」と。この一言が、娘に「お前は暴力を振るう人間なんだ」という烙印を押すことになったのだと思う。言い換えれば、「お前は自分がそういう人間じゃないと信じていても、お前はそういう人間なんだ」と言っているようなものである。そして、彼女がそういう人間(暴力を振るう人間)ではないということは、父親の「俺を殴れ」(暴力を振るえ)の要請のために、もはや証明の機会を奪われてしまう。彼女は望まない自分を実現する方向に動機づけられてしまっている。それをする以外に選択肢がなくなっているのだ。
父親は彼女の理想自己像を壊すことに貢献しているのだ。暴力が激化したのは、彼女が「病気」だからというのではなく、失ったもの、壊されたものに対する怒りだったのだと思う。そして、それを決定的に方向づけたのは父親だったのだ。
一つの行為には、その行為の動機があり、欲求がある。行為と動機がかけ離れればかけ離れるほど、その人の言動が不可解なものに見えてくる。でも、まったく理解できないわけではない。よく考えてみると、いろんな可能性が見えてくるものだ。「病気のせい」などと、安易な因果関係を形成して済ましてしまうことも可能であるが、それは何の足しにもならない。
ちなみに、願っていることと正反対のことを人がしてしまうということは、不自然なように聞こえるかもしれないけど、案外、よく起きていることである。
例えば、失敗しないようにしよう(この場合、「失敗しない」があらゆる行為の動機となる)とすればするほど、自ら失敗を招くようなことをしてしまうという例もある。高所恐怖症の人が「落ちないように」すればするほど、現実に落下してしまうとか、パチンコを止めよう止めようと思えば思うほど、パチンコの誘惑が高まり、止めると言っておきながら行ってしまうというような例もよく聞く。
僕の個人的な見解では、こうした例は、「~をする」というプラスの動機づけではなく、「~しない」というマイナスの動機づけの時により生じやすいのではないかと思う。
事例の娘さんは、「自分は暴力を振るいたくない」という動機を持っていたのだと思われるのだが、これは却って「暴力を振るってしまいそうだ」という状況へと彼女を導いてしまっただろうと思う。彼女はこれは自分ではないと信じたいのだけど、父親が出てきて、お前はそんな人間なんだということを積極的に認定してしまったわけだ。父親は娘の暴力を止めるべきだったのだ。「これ以上暴力を振るったら、後悔する、取り返しがつかなくなる」と言って、娘を止めるべきだったと思う。それが娘を救うことになっていただろうに。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)