12年目コラム(13):人を助けたい(4)
「3・4・3の法則」というのは、しごく当たり前のように聞こえるのだけれど、これがどういうことであるかを本当に理解できる人は少ない。
あなたが「人を助けたい」という動機でカウンセラーになったとする。この法則に照合すると、あなたのその動機を満たせるのは3割だけであるということだ。グループAの3割のことだが、その人たちはあなたの援助に感謝するだろうが、それは全体の3割でしかないのだ。あとの7割においては、あなたはその動機を満たせない上に、グループCの3割の人たちからは、あなたが良かれと思って援助しても、あなたは嫌われ、恨まれるということを意味しているのだ。
動機や願望が3割しか満たされないということになると、おそらく、長くは続けられないだろうと思う。動機の方を変えるか、方向転換するかしかなくなるだろう。従って、「人を助けたい」というそれだけの動機で始めたことは、長く継続してやっていくことができず、早々に断念することになるということだ。それが対人間の仕事であるために、わずか3割しかその動機が満たせないためである。
さて、「人を助けたい」という動機だけで援助職に就いた人は、その動機のために長く続けることができないのであるが、さらに厄介な問題を生み出す。
先述のように、この動機に「この人を助けるためなら、この人をどうしてもよい」などというサディスティックな自己愛が潜んでいる場合、この援助関係はどのようなものになるだろうか。
「この人をどのようにしてもよい」というのは、対人関係ではなく、対モノ関係の在り方である。例えば、時計を修理する時、それが直るためならどのようなことをしてもいいのであるが、それと同じ関係性が人間関係に持ち込まれるということである。
そんなことはないと反論される方もおられるだろうけど、実際、このようなことが生じる。箱庭療法で子供が治ったという事例を聴いて、母親が箱庭を購入し、子供に作らせたり(河合隼雄さんが言ってた話だったと思う)、絵を描かせたり、不必要な一人暮らしを強制したり、好き勝手に振る舞わせたり、相手を助けようとしてメチャクチャなことをする人も少なくないのだ。もう一つ言えば、相手を伸ばそうとして、とにかく相手を褒めさえすればよいと信じている人もあるのだ。
この対モノ関係というのは、「こんなふうにすれば、こうなる」という規則だけを信用しているということだ。そのため、これに基づく援助は極めて一方的でテクニカルに偏重することになる。ある意味では、あまりに技巧的なのである。援助者はテクニックだけで相手に施すことになり、受ける相手は援助者ではなくテクニックを受け取ることになる。
当然、そんな援助を受ける側は生きた人間であるので、それに抵抗する気持ちも生じるだろうし、援助を与える側の期待に添わないこともたくさん生じるだろう。こうして、ありとあらゆる手段を尽くして援助をしても、治らないということになって、お手上げになり、どうにもならなくなってその人をカウンセラーや医師に送り込んでくる。こんな例も少なくないのだ。
つまり、「人を助けたい」という動機に基づいた関係においては、被援助者がモノ化されてしまうということである。その動機の背後にサディスティックな自己愛が潜んでいればいるほど、そういう事態が実現してしまうということである。
そして、ここで被援助者はジレンマに立たされる。援助者の援助行為を終わらせよう、止めさせようと思えば、被援助者は援助者に合わせることをするだろう。つまり、自らを積極的にモノ化していくだろう。しかし、自分がモノ化するということは、自分の感情や思考をすべて援助者のテクニカルな援助に適合させていかなければならないわけであるから、相当苦しい体験となる。この苦しい体験を回避しようとすれば、自分をモノ化するわけにはいかなくなる。こうしてこの人は引き裂かれるのである。この人がこのジレンマを克服する一つの手段が精神病である可能性だって少なくないのだ。
援助者が「人を助けたい」という動機だけで熱心に援助を行う。これはけっこう傍迷惑な行為である。援助を受ける側は決して「救われない」。従って、この動機は達成できないというこだけでなく、その動機とは正反対の結果を招くことにもなりかねないのだ。
僕の自説の結論として、「人を助けたい」という動機でカウンセラーになると、長く続けられない上に、誰一人として助けることができないということである。そういう逆説的なことが本当に生じるものである。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)