12年目コラム(11):「人を助けたい」(3)

 もう少しこのテーマで書くことがあった。
 カウンセラーになって人を助けたいと語る人を何人か見たことがある。その中には若い人もいれば、若くない人もいた。若い人が言うのはまだ許せるけど、それでもこの言葉は僕には不快だ。
 その理由の一つは既に述べたように、「人を助けたい」と「人を殺したい」は紙一重であるように僕には聞こえるからだ。「人を殺してみたかった」は「人を助けてみたかった」と同じ言葉として僕には響いてくるのだ。
 今日はもう一つの理由について述べようと思う。あくまでも僕の個人的な理由であることは最初にお断りしておく。

 このもう一つの理由の方は簡単なので、簡潔に済ませようと思う。
 要はこういうことなのだ。「人を助けたい」とか「人の役に立ちたい」という感情の背後には、「自分は人を助けることができる」「人の役に立つことができる」という感情が潜んでいるものである。自分はそういうことができる人間であるという自己確信が見られるものだ。それもおこがましいことだと僕は思うのだが、本人がそう確信しているのであれば、それはそれでいいとしよう。
 続けて、「私は人を助けることができる」という信念は、「私は人をどうにかできる」という信念に通じる場合があり得ると僕は思うのだ。その場合、「自分は人を助けることのできる人間だ」という自己確信は、助けるという名目であれば「自分は人をどのようにしてもよい」という自己確信と一体なのだ。
 そして、「私は人をどうにかできる」というこの信念、「人をどのようにしてもよい」という確信は、僕にはあまりにも支配的でサディスティックに響くのだ。「人を助けたい」の言葉に、僕はこのような響きを聴いてしまうので、僕はそれに反感を覚えてしまうのだと思う。

 どの人も、多かれ少なかれ、サディスティックな傾向を有しているものだ。援助者の資質とか資格とかいう場合、これが意識化されているかどうかということが一番重要である。意識化されていないのは怖いことである。
 援助者がこのようなサディスティックな傾向に無自覚で無意識的であると、これがどこかで表に現れる。援助過程が順調に進展している時には問題はないだろうけど、特に、被援助者が壁にぶつかって、進展が滞った時にそれが顕著に出てくるものだと思う。この時、「この人を助けるためにこの人をどのようにしてもいいのだ」という感情が働くと、ほとんど虐待のようなことが生じる。そして、その感情が意識化されていないために、この人は自分の行為を虐待とは見做さないのだ。あくまでも援助だと認識することになるのだ。
 順調に進んでいた援助過程が滞った時には、何か妨害物が働いているものである。それは援助者側に働いているかもしれないし、被援助者側に働いているかもしれないし、双方に同時にそれが働いているかもしれない。サディスティックでない援助者であれば、ここでそれを丹念に紐解いていこうとするだろう。強行突破するようなことはあまりしないだろうと思う。

 僕の言っていることがおかしいことのように聞こえるかもしれない。でも、子供を助けようとして親がしていることの中には、また、反対に、親を助けようとして子供がしていることの中には、こういう種類の現象がよく見られるように思う。
 直接に見る機会が僕には少ないけれど、教育熱心な教師と生徒、厳しい部活顧問と部員の間でも生じ得るし、部下思いの上司と部下との間でも時に見られる。もちろん、医師と患者、カウンセラーとクライアントの間でも生じる可能性が十分にある現象である。
 肝心な点は、それに気づくかどうかである。あるいは、どれだけ早期に気づくことができるかである。このサディスティックな衝動を無くそうとするのは非現実的であり、完全に消去することなんて不可能だと思う。だから、それを目指すのではない。それよりも、その衝動が発現していることに気づくことが目指されなければならないし、その方が現実的なのだ。

 もう一つ、「人を助けるために相手に何をしてもいい、自分はそれが許される人間だ」といった信念には、過剰な自己愛が含まれていることが分かる。「過剰な自己愛」プラス「サディスティックな衝動」から生まれる信念だと思う。後者については述べてきたので、前者の「過剰な自己愛」の方に目を転じみよう。
 本当はこれは「間違った自己愛の過剰備給」ということなのだけど、「間違った」の部分を取り上げると際限がなくなるので、あくまでも過剰であるという点だけを取り上げる。
 過剰な自己愛というのは、要するに、心的エネルギーが過度に自己へ備給されているということであるが、そのため、対象(相手)に向けられるエネルギーが削られることになる。極端に言えば、相手はどうでもいいのである。自分がそういう人間であるということが自分に証明できればそれで十分なのだ。だから、相手が停滞してしまうと、それは受け入れることができない上に、自分自身が脅かされることになるわけだ。そうして、自分のために、強行突破的な行動に出るのである。
 従って、この援助は被援助者のためになされるのではなく、限りなく援助者自身のためだけになされることになる。被援助者の示す動きの中で、許容できないものも増えてくる。そして、援助者の描く最終段階に被援助者を力づくでも至らせようとしてしまうのだ。
 従って、「治ったら治ったで良い、治らなかったら治らなかったで良い」と思えるくらいの臨床家の方が安全という気が僕にはするのである。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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