<#016-26>「しんどくなったら、また来ます」
<Q>
「しんどくなったら、また来ます」、「今は落ち着いているので、しんどくなったら来ます」という種類のもの。
<状況と背景>
これは初回面接時に継続を勧めた際にしばしば耳にする言葉です。また、継続中のクライアントからも耳にすることのある言葉であります。
同じ言葉でも、両者においては、その含まれる意味合いが異なります。ここで取り上げるのは初回面接時に発せられるものです。
<A>
私の回答は、「そうするというのであれば、そうすればいい」というものです。要するに、私にその決定権(カウンセリングを継続するかどうかというクライアント側に属する決定に関する権利)がないからであります。
<補足と説明>
しんどくなったら受けるというやり方は、次の二つの点で問題が生まれると私は考えています。
しどくなったら受けるということを繰り返していると、両者の観念連合が生まれる可能性が高まるのであります。
つまり、しんどい状態と、その状態の時に行く場所とが結合するわけであります。条件反射ないしは学習が成立してしまうということであります。その場所はしんどい状態を連想させるので、行きたくない場所になるというわけであります。仮に、その場所でいい体験が得られるとしても、不愉快な感情が先行してしまうのであります。
もう一つは、しんどい状態にある時は前に進めないという治療の性質のためであります。状態のいい時にしか治療は前に進めないのであります。
精神的な治療に関してはそうであります。その人の状態が落ち着かなければ、精神療法なんてできないのであります。
身体的な治療に関しても同じことが言えるものもあります。私の経験した範囲では、痛風なんかはそうであります。発作が起きている時は何もできないのであります。発作が治まってからそれの治療が開始されるのであります。
状態が悪い場合、カウンセラーであれ、精神科医であれ、その人に対してできることなんてほとんどないのです。せいぜい悪い状態に対しての処置がいくつかなされる程度であります。そして、その人の状態がいい時でなければ治療というものは開始できないのです。だから、状態がいいのになぜ治療に通っているのかと周囲の人から不思議がられてしまう人もおられるのですが、本当はそれが正しいのであります。そういう人が「治る」と私は考えています。
以上、2点述べました。しんどい時だけ来るという姿勢は、臨床的観点からすれば、あまり望ましいことではないのであります。
加えて、私の経験から次のことを言いたいと思います。
まず、しんどくなった時にはすでに遅すぎる場合がけっこうあるということです。多くのことが手遅れになった状態で来談されることもあるのです。
そして、しんどくなって再来談した時には、以前よりもその人の状態が悪化していることがけっこうあるのです。ここには、その人を取り巻く状況も悪化しているという例が含まれています。
なぜ、そうなるのかということですが、この理由は簡単です。身体で言えば、これは病状がかなり悪化して、症状がかなり顕在化してから医師を訪れるのと同じことだからです。そこまで状態が悪化して、その悪化が意識化されて、それがさらに問題視されるようになって、初めて治療に訪れることになるからであります。
また、そこまで病状や問題が悪化しているということであれば、その人の状態が以前よりも悪くなっただけでなく、その人が置かれている状況も以前よりも厳しいものになっている可能性が高いと思われるのです。常にそうであるとは言い切れないとしても、環境が変わっていなければその人の状態も大きく変化することはないかもしれません。環境の浮き沈みとその人の状態の浮き沈みとはけっこうつながっていることもあるからであります。
ところで、逆に私がお尋ねしたいのは、それならどれくらいしんどくなったら来談しようという気持ちになるのでしょうか、ということであります。
心的に負荷を感じていても、それに気づかない人もあれば、大したことないと過小評価してしまう人もあるし、我慢してしまう人もあります。いつ来談しようと決意されるのでしょう。
そして、この言葉を発する人の大部分はしんどくなった時に来談していないのです。限界を超えたところで来談されるのです。すでに遅すぎるのです。だから、私はこの言葉をそのまま信用できないのです。しんどくなったら来ると言うけれど、現実にはしんどくなっても来られず、限界を超えて、手に負えなくなってから来られることが多いのです。
従って、「しんどくなったら、また来ます」に対する私の答えは、「それは信用できません」であります。そして「しんどいと思う前に来なさい」が正解なのです。この種の人にはそれくらいがちょうどいいタイミングだと私は考えています。
ここで少し別の観点から余談を。
「しんどくなったら、また来ます」とか「落ち着いたら来ます」とか「考えてみます」とか、こうした言葉は体裁のいい断り文句だと私は考えていますので、もし、私のカウンセリングを受けて、さらに継続を勧めてみて、クライアントがこれらの言葉を発したら、私は「あ、断られたな」と受け取ることにしています。
断られることがあっても、それはそれで仕方がないと考えています。その人は私のカウンセリングを受けなければならない義務を負っているわけではないし、結局のところ、私もクライアントの依頼がなければカウンセリングを実施することができない立場にあるわけですから、最終的な判断はクライアントがするしかないのです。ただし、その判断の結果、本人がさらに悪化しても、それは本人の責任なのです。
私は継続を勧めました。それが必要だと考えたから私は勧めるのです。継続するかしないかはクライアントの判断であります。彼らは継続しない方を選択します。その選択が正しかったという場合もあるでしょうし、間違っていたという場合もあるでしょう。でも、それはもはや私がどうこう言える領域の事柄ではないのです。その人が自ら負わなければならない部分なのです。
この種の「断り」をする人たちは、共通して激しい「抵抗」感を有しているということが分かるのです。この「抵抗感」のためにカウンセリングを敬遠したくなるのです。
この「抵抗感」をさまざまな形でクライアントは示してくれます。当日に面接をしてほしいと言ってきたり、「面接申込用紙」に記入しなかったり、指示以外の記入をしたり、時間に遅れたり、場所を間違えたり、予約日時を間違えたり、お茶をこぼしてしまったり、小さな子供を連れてきたり、実にさまざまです。
面接中は、表情や姿勢を硬直させていたり、口を開こうとしなかったり、話の内容を紙に書いて持ってきたり、一つの話題に頑固に固執したり、実に厄介な形で表してくれます。
これらの「抵抗感」というのは、多かれ少なかれ、すべてのクライアントが有しているものであります。電気はある程度の抵抗がないとスムーズに流れないのと同じで、適度な「抵抗」はカウンセリングには欠かせないものではあります。でも、それがあまりに強すぎるのです。
この「抵抗感」の根底にあるのは、「不信感」なのです。私に対する不信感やカウンセリングに対する不信感もあるのですが、その人が自分自身に対して有している不信感もここには含まれているのです。詳細は省きますが、私はそのように考えています。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)