<#016-14>「カウンセリングを受けるのが怖い」
<Q>
「カウンセリングを受けるのが怖い」
<状況と背景>
はっきりとこのように表現される方もおられれば、もっと間接的にと言いますか、婉曲的に「怖い」を表現される方もおられます。初めて問い合わせをしてくる人から発せられる質問であります。
<A>
私のお答えは「皆さん、そうなのですよ」というものです。
また、「怖いと思うくらいの方がいいですよ」と答えたいと思います。
もっと言えば、「怖いから受けなさい」とも言いたいところであります。
<解説>
まず、この「怖い」は、ある程度は自然な感情だと私は考えています。特に始めて体験する事柄、初対面の人と会うとか、そういう状況では不安や恐怖心が生じて何らおかしいことはなく、むしろ、緊張も心配もないという人の方が問題があるように私は思います。というのは、そういう人は人間的な体験や感情からどこか遊離しているような印象を私は受けるのであります。
カウンセリングにおいても同様であります。どの人も、実際にカウンセリングを受ける前は恐怖感や不安を抱えておられるものと思います。ある程度、それは自然な感情であると私は考えています。
時々、自分には何も怖いものなんてないというような、いささか勝気なクライアントもおられるのですが、そういう方のお話を窺っていると、やはり多少の恐怖感は覚えていて、それを打ち消そうと強がりを言っていることが理解されてくることもあるのです。
従って、この「怖さ」は誰もが体験していることで、この質問者に限ったことではないのです。
そして、多少の恐怖感や不安感はある方が望ましいのであります。それらが全くないという人がいるとすれば、その人は状況に対してあまりに無防備すぎるのかもしれません。いささか病的な場合であれば、それは人間的な感情が希薄になっていることを表しているかもしれません。
いや、これは実際にそうであります。精神病圏や人格障害圏のクライアントにしばしば見られることであります。何の準備もなく、何の感情もなく、いきなりその場面に飛び込んで、痛手を負うのであります。無防備と言いますが、無謀と言いますか、どこか自己棄損的な意味合いすら私は感じてしまうのであります。
さて、カウンセリングを受けることに対して、恐怖感や不安があるのは自然なことだと述べました。恐怖感や不安を抱えながらクライアントは受けるのであります。
そして、一回目のカウンセリングを終えて、「思っていたような怖いことが起こらなかった」と表明される方も多いのです。これはとても大切な体験であると私は思います。どんなことでも、現実に体験するまでは不安や畏怖に襲われるものではないかと思います。その怖いことが現実には起きなかったといった体験は、一つの克服であり、その人の安心感につながるものであり、その人を変えていく体験の一つであると私は考えています。
そして、あまり具体的に書くのは控えますが、「最初に信じていたほど怖いことはなかった」という経験を積む必要のある人もおられるのであります。こういう人にとっては絶対にした方がいい経験となるのであります。
ところで、この「怖さ」について考えてみましょう。いくつかの観点から述べることができます。
一つ目の観点は、それが新規の体験であるということに関わります。クライアントは初めて訪れる場所で、初めて会う人に向かって、自分自身のことを話すように求められるのです。これはやはり不安や恐れを喚起してしまう状況でしょう。だから、その恐れは自然な感情だと言えるのです。クライアントはそこで自我を機能させることを求められてしまうのでありますが、そこに心理療法の意義があると私は考えています。
二つ目は、良くないことを予期してしまうということに関係します。先ほど述べたような「思っていたほど怖いことが起こらなかった」と安心された方は、それまでそこで良くないことが起きるのではないかと予測されていたことが窺われます。いわゆる「予期不安」を抱えていたことが窺われるわけであります。
この「良くないこと」というのは、人によりさまざまです。どんなことを心配されてたのですかと私は時々尋ねることにしていますが、そこで得た「悪い出来事」は多種多様でした。ある人は、一度訪れたら帰らせてくれないのではないかと心配していましたし、後で高額なお金を請求されるのではないかという心配をしていた人もおられました。何か売りつけられるとか、変な薬を飲まされるとか、人格改造されてしまうのではないかとか、叱責される、激励される、無理な課題を課せられるとか、危害を加えられるとか、いろんな心配をされているのです。
こうしたイメージは、当人の心にある「悪い対象」像に基づくものであり、この種の心配をされている時、その人は自分の中の「悪いもの」と関わりを持っていると考えることができます。従って、思っていたような怖いことは起きなかったという経験をする時、その人は内的な悪い対象とのかかわりが薄れていることになるのです。このことも治療的意義があると私は考えています。
いずれにしても、上記のようなさまざまな恐怖は、そのどれも現実に起こりえないことの方が多いのですが、当人は真剣にそういう恐れに怯えているのです。
三つ目の観点は臨床家に対しての感情に関係するものです。臨床家はしばしば権威者としてクライアントには映るのです。カウンセリングに対する恐れよりも、こういう権威に対しての恐れを抱えているという人もあります。
また、権威に似ているのですが、臨床家に限らず、専門家に対して萎縮してしまうという人もおられます。これは、専門家がその道で立派にやっているように見えるためか、その人の劣等感のようなものが刺激されてしまうようです。この感情もまたカウンセリングを受けることに対する恐れにつながっているようであります。
権威に対する態度に関して補足しておくと、私たちは誰もが権威に対して何らかの態度を形成しているものであります。というのはどの人も子供時代を経験しているからであります。最初の権威者は親であることが多いのですが、以後、子供はどうしても年長者に囲まれて生きることになるので、いい意味でも悪い意味でも、権威に対しての態度を形成してしまうのであります。
従って、カウンセリングに対する恐れというのは、クライアントの臨床家に対する感情であると同時に、臨床家に対しての感情転移でもあるということになります。
四つ目の観点はその人の個人的な背景によるものです。これは過去にカウンセリングでひどい目に遭ったという体験とか、誰も信じられなくなっているという状態とかも含めて、その人の生の在り方などとも関わることです。
例えば、変化を恐れるという人がおられます。現状維持志向的と言いましょうか、そのような在り方で生きているという人は、自分を変えるいかなる体験に対しても、自分を変えようという試みやそれをもたらそうとする専門家などに対しても、恐れを抱くものだと思います。
また、自己嫌悪的な心の在り方、自己破壊的な生き方をしている人は、自分が良くなっていくことに対しての恐れを抱くことでしょう。近年、私はこういう人も案外たくさんいらっしゃるということを経験しています。自己破壊的な生き方というのは、「悪く」なることに親和性を有しているということであり、「良く」なるということは、当人には信じられないか、排斥されている信念であったりします。だから、その人が「良く」なっていくための他者からのさまざまな働きかけは、その人に脅威をもたらすようであります。これもまたカウンセリングに対しての恐れの気持ちとして現れているのだと考えられます。
時々、同業の臨床家さんの中に、こうしたクライアントの不安を軽減しようとして、安心して受けましょうというアピールをされている方を見かけます。私はそれはそれで有意義なことだと考えています。でも、恐れや不安は必ずあるものなので、それを完全に払拭しようという試みは失敗に終わると私は思います。そして、完全に払拭される方が問題が大きいと私は考えています。
もちろん、クライアントには余計な心配などせずに、安心して来ていただきたいとは思います。それよりも、どういうことを心配しているかを取り上げ、検討していく方が意義があり、お互いに先に進むことができるということも私は経験しています。だから、怖いから行けないではなく、その怖いと感じている事柄を話してほしいとも思うのです。
私も若い頃、22歳頃でしたが、心理療法を受けた経験があります。その時の経験が直接的に今の私につながっているのですが、私も受けるまでは怖いと感じていました。何度も逡巡し、思い悩みました。恐れのためになかなか決断ができなかったのを覚えています。
今から考えると、それは私の抱えている恐怖感、自分自身や自分の生、在り方、自分の将来等に関する恐怖感を心理療法の上に投げかけていたように思います。治療が怖いのではなく、私の心の中にある恐怖感が治療に投影されていた部分がかなりあったなと、当時を振り返ると、思い至るのであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)