#016-13ラクになりますか 

 

<Q> 

 「カウンセリングを受けてラクになりますか」とか、それに類する内容の質問であります。 

 

<状況と背景> 

 しばしば発せられる問いです。ある人は、とても苦しい状況を生きていて、何かに縋りたかったのだろうと思うのですが、「カウンセリングを受けると、ラクになりますか」と質問してきました。この人のおっしゃっていることは、より正確に言うと、「自分が今の状況から抜け出ることができますか」という意味合いであるように思います。ただ、自分がそこから抜け出ることができるかとは問わず、カウンセリングでラクになるかといった問いの立て方にその人の問題点もあるようであります。 

 

<A> 

 今のその人が置かれている状況から抜け出ることができるかどうかは、大部分はその人次第なのだと思うのですが、でも、私の考えでは、どの人でもやっていけばその状況から抜け出ることができるし、その状況を変えていくこともできると考えています。自分自身を、そのために変えていくということも可能なことだと考えています。 

 しかし、「ラクになるか」と問われれば、私は「決してラクにはなりません。その逆です」と答えるだろうと思います。「カウンセリングを受けるとラクになる」という迷信がどこから生まれたのか私は知りませんが、それは誤解を生む表現です。 

 

<補足と説明> 

 あるクライアントが私との面接中にて、過去に受けたカウンセラーのことが話題になりました。その人はそのカウンセラーと一緒にやってこられたのでしたが、ある時、そのカウンセラーのもとを去ったのです。 

 「なぜ、去ったのですか、そのカウンセラーさんとの間に何が起きたのでしょう」と私は興味を覚えて尋ねます。その人はしばらく考えて、思い出したように「最後の面接の時に、そのカウンセラーから『早くラクになりなさい』ということを言われて、それがひっかかった」と答えました。私は、それを聴いて、「『早くラクになりなさい』って。まるで『早く死になさい』って言ってるようなものですよね」と答えると、その人は、まるで長年の謎が解けたかのように顔を輝かして、「そうなんですよ、そんな感じに聞こえたのですよ」と答えました。 

 不思議な話だと思います。その人も苦しんでいて、何とかラクになりたいと願っていたのでしたが、他者から「ラクになりなさい」と言われると素直には受け入れられないのです。この「ラク」の意味合いが異なってくるからだと思います。彼女はその一言で、カウンセラーから見放されたような体験をしたのだと私は察します 

 

 私はまた一人の女性クライアントを思い出します。彼女のことは随所で述べているのですが、ここでも繰り返させていただきます。彼女は長い年月、抑うつ的で、無為な生活を送ってきました。周囲への適応は良好なのですが、それは自動機械のように振る舞っているだけで、まったく自分が生きているという感じがしていないのでした。 

 一年半くらいのカウンセリング期間を経て、彼女に変化が見られてきます。最初はイライラし始めたのでした。小さな出来事さえ彼女の癇に触るのです。時には抑えきれず、爆発してしまうというようなこともありました。彼女には自分がどうしてそういうことをしてしまうのか理解できていませんでしたが、それは今まで活用されていなかったエネルギーが動き始めたことを意味しているのです。 

 そういう時期を経て、彼女はいろんなことを思い出していきます。ある時、彼女は言います、「わたしは何をしているんだろうって。もっとしたいことがたくさんあって、あれもしたい、これもしたいと思っていたのに。本当だったら結婚だってしていたはずなのに。何一つとしてやっていないじゃない」と。 

 その時以来、彼女はこれまで心の中の計画でしかなかった事柄を現実に始めていくようになったのです。私は望ましいことだと思いました。 

 この女性の例を「ラク」という観点で述べれば、彼女は抑うつ的で自動機械のように生きていた頃よりもはるかに労多く、体力的にもきつい生き方をしています。決して、字面通り「ラク」になったとは言えません。今まで以上に忙しく、努力を要し、責任もかかってくる生き方を送るようになり、決して「ラク」に生きようとはしていないのは、実際に彼女を見ていると、よく伝わってくるのです。 

 

 「ラク」に生きるとは、私の見解では、「自己無関与的」に生きるということと同義だと思います。周囲の世界や自分自身に対して、まったく関与しない生き方のことだと思います。常に周囲に無関心で、傍観者的に眺め、人生や生活上のあらゆる出来事に関わらず、その側をすり抜けていくだけという生き方のように思われます。これはカウンセリングで達成する生き方ではなく、その反対のものなのです。 

従って、上記のような意味において、カウンセリングは決してクライアントを「ラク」にしないと言えるのです。 

 

 では、上述の女性はこれまでよりも苦労の多い生活を送るようになり、苦しくならなかったのかと思われる方もいらっしゃることでしょう。それに関して補足しておこうと思います。 

 彼女は彼女でしんどいこともあったでしょうし、苦しいこともあったでしょう。ただ、そういうことは彼女にとっては副次的な意味合いしか帯びなかっただろうと私は思います。彼女の中では達成したいことがあり、目指しているものがあるので、それに不随する苦労はさほど大したことではなかっただろうと私は思うのです。 

 また、ここが重要な点であり、おそらく「ラクになる」の迷信が発生する一つの契機となったと思うのですが、彼女の自我が機能するようになっているので、彼女はさまざまな場面に臨むことができるのであります。以前よりも苦もなく新しい場面に彼女は飛び込むのであります。そういう意味では以前よりも「ラク」にそれができるということが言えるのかもしれませんが、決して「ラクに生きる」という意味ではないことに注意する必要があると思います。 

 

 また、別の観点から言えば、例えば心の中の「囚われから解放される」とか「わだかまりが解消される」とか、そういう意味で「ラク」になる場合もあるでしょう。 

 しかし、この体験はその人の生の展望が開けることによって達成される場合が多く、囚われやわだかまりとは別の次元でその人が生きるようになるからであり、それによって自分が「ラク」になったというよりは、もはやそれらがどうでもいいことになる、当人を苦しめる問題ではなくなるといった体験をしているものであると私は考えています。 

 より大きな目標であるとか、より価値のある理想であるとか、そういうものが芽生え、それらの実現に打ち込むようになるので、囚われやわだかまりが無価値になるわけであります。だから、クライアントからすれば、「ラクになる」という体験にはつながらないだろうと私は思います。 

 

文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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