#016-4カウンセリングなんておかしな人が受けるものでしょう? 

 

<Q> 

 「カウンセリングなんて、おかしな人が受けるものでしょう?」 

 類似の質問として、「どういう人がカウンセリングを受けているのですか」というものもありますが、この質問は別に取り上げることにします。 

 

状況と背景> 

 この質問者は家族からカウンセリングを受けるようにしつこく言われ続けてきて、仕方なしにという感じで私に電話してきた人でした。その際に、上記のような言葉を発せられたのでした。 

 カウンセリングなんておかしな人間が受けるものであって、自分はそうではないという尊大さが質問者からは感じられました。 

 

A 

 この問いに対する私の正直な答えは、「どこからそういう情報を得たの?」というものです。でも、これではこの人の問いの答えたことにはならないので、次のように答えましょう。「むしろ、その逆です」と。「おかしな人」こそカウンセリングのような場を忌避するのであります。 

 例えば、自分の人生や生活に行き詰り、閉塞感を体験している二人の人がいるとしましょう。Aさんは「私の人生なんてこんなもので、こんな生き方しかできない。死ぬまでこの生き方を貫こう」と考えています。もう一人のBさんは「今は辛い生き方をしているけれど、他の生き方もできるのではないだろうか」と考えています。 

 また、人との間でトラブルが生じ、Aさんは「あいつが悪い。あいつが何とかなればいいのだ。私は何も間違っていない」と考えています。Bさんは「向こうも悪いけれど、私の方も悪かった点があるし、改善すべき点があるように思う」と考えています。 

 さて、AさんとBさんと、あなたから見て、どちらがより「まとも」な考え方をしており、どちらがより「おかしな」考え方をしているように思われるでしょうか。当然、Bさんの方がカウンセリングを訪れる可能性が高いとは言えるのですが、Bさんはそれほど「おかしな」考え方をしている「おかしな」人のようにあなたには思えるでしょうか。 

 

解説 

 この人が「カウンセリングなんておかしな人間が行く所だ」というような信念、偏見を日ごろから抱いておられるとすれば、家族から「カウンセリングを受けた方がいい」と言われることは、この人にとっては、「お前はおかしい」と言われているに等しくなることでしょう。この人が怒っているのも理解できないことではありません。 

 しかし、この人に限らず、同種の信念をお持ちの方もたくさんおられるということは私も知っております。「おかしな」の部分が、例えば「弱い」とか「ダメな」とかいう言葉に代わるだけで、こうした表現はけっこう私も耳にするところであります。 

 個人が自分の思想を持つことは望ましいことだと私は考えています。この人がそのように考えているのも、この人の思想であります。私はこのの考え方を訂正しようなどという気持ちはありません。 

 ただ、こうした思考や言葉を生み出している背景がとても気になるので、この場を借りて少し述べてみることにします。 

 「あなたはカウンセリングを受けた方がいい」と言う方も、「カウンセリングなんておかしな連中の行く所だ」と言う方も、どちらも人間を非人間化しているように私には聞こえてしまうのです。つまり、「壊れた機械は修理に出せ」というのと同じ文脈のものに聞こえるのです。もちろん、そう聞こえるのは私だけかもしれません。 

 この方も家族の方々も、お互いに非人間化しあうような関係の中で生きて来られたのかもしれないと私には思えるのです。私の思い違いや考えすぎということであれば、それはそれでいいことなのですが、可能性としてはあり得ることだと思います。 

 従って、「カウンセリングなんておかしな人が受けるものでしょう?」とこの人が問う時、それは非人間化してくる圧力に対しての抵抗と見ることもできるように思います。自分はそうではないと暗に主張することで、この人は自分が非人間化されることを防衛しているのかもしれません。 

 

 ところで、実際にカウンセリングをしている側からすると、おかしな人や病気の人がカウンセリングを受けるものではないということが明瞭なのであります。先述のように、そういう人こそカウンセリングを毛嫌いされることも多いのであります。 

 現実にはそうではなく、基本的に、「良くなりたい人」がカウンセリングを受けに来られるのであります。その際に、病気の有無や問題の種類・性質などは関係がないのであります。私はそのように考えています。 

 今、「基本的に」と申しましたがそれは、別の目的理由でカウンセリングを受けに来る人もあるからです。そういう人のことはここでは触れないでおきます。基本的に、「良くなりたい」とか「治りたい」といった欲求を持って来談されるのであります。だから、カウンセラーは不具合を治す「修理屋」ではないのであります。良くなりたいといったクライアントの欲求がカウンセリングを生み出すのであります。 

 

 また、本人は「良くなりたい」という願望を有しており、カウンセリングや治療を受けているけれど、なかなか「治療」に入れないという人も少なからずおられるのです。例えば、臨床家を試したり、挑発したり、打ち負かそうとしたりなど、そんなことばかりやる人もあるのです。あるいは、その願望はありながらも、受けたり受けなかったり、詰めて予約を入れたり急に間隔を空けたりなど、不安定でいささか不真面目な取り組みしかできずに「治療関係」が形成されないといった例もあるのです。従って、「良くなりたい人」が受けるものであるとは言え、そこには種々の人が含まれているわけであります。 

 

 ずいぶん話が散漫になってきましたので、本題に戻ろうかと思います。基本的にカウンセリングは「良くなりたい」と願う人が受けるものであり、カウンセリングはおかしな人が受けるというのは個人の偏見であるということになります。 

 そのような偏見を抱くことになった背景がその人なりにあるのでしょうけれど、私にはそこまでは分かりませんので、そこは何も言えないのであります。 

 しかし、もし、質問者当人も自分自身の問題や不具合を自覚していて、援助の必要性を感じているのにもかかわらず、そのような偏見を盾にして援助を忌避しているとすれば、それはそれで自己毀損の一つの表現であるかもしれないとも私は思うのであります。そうであれば、この質問はそれ自体が症状の一端を担っていることになると私は思うのです。 

 

文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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